私は、そう思っていた。そう思って東京を棄て、まだ春も浅い、さびれた海岸町に来たのだ。
 だが、忘れようと、焦慮《あせ》れば焦慮るほど、私はあのネネの、真綿で造られた人形のような、柔かい曲線に包まれた肉体を想い出し、キリキリと胸に刺込む痛みを覚えるのだ。黄昏になると、殊にその誘惑がひどくなる。
 その上、糸の切れた凧のようなその日その日であったせいか灯ともし頃になると、どうしても凝乎《じっ》としてはいられなくなって、あてもない道を、まだ肌寒い風に吹き送られ乍《なが》ら、防風の砂丘を越えて、野良犬のように迂路《うろ》つき廻るのであった。
 時には潮の引いた堅い砂の上を、すたすたと歩き、或《あるい》は檣《マスト》のように渚に突立って、黝《くろ》みゆく水平線のこんもり膨《ふく》れた背を、瞬きを忘れて見詰め、或は又、右手《めて》の太郎岬《たろうみさき》の林を染めている幽《かすか》な茜《あかね》に、少女のような感傷を覚えたり、さては疲れ果て、骸骨《がいこつ》のような流木に腰を下し、砂に潜った足先に感ずる余熱の温りを慈しみ、ざざあ、ざざあ、と鳴る単調な汐の音に、こと新しく聞き入るのであった。
 さて、そんな、ひどく無為のうちに、心の落著かぬ日を、この海岸に来て一ト月余りも過した時であろうか。
 その黄昏の散歩の時に、何時《いつ》とはなく、一人の男が現われて来たのだ。
 その男は、盲縞《めくらじま》のつかれた袷《あわせ》に、無造作に帯を巻きつけ、蓬《よもぎ》のような頭の髪《け》を海風《かいふう》に逆立たせて、そのせいか、際立って頬骨《ほほぼね》の目立つ顔を持った痩身《そうしん》の男であった。
 尤《もっと》も、考えてみれば、私がその男に気づいたのは、散歩に出た最初の時からであったらしく、それが、いつもこの男も私と同じ時刻に、海岸を散歩するものと見えて、人ッ子一人いないこの海岸に、彼の蹌踉《そうろう》とした姿のあることだけが、さもあたりまえのように、知らず知らず思われていたのだ。
『やあ――』
 はじめに口を切ったのは、その男であった。それは十年も前からの友人に、ふと[#「ふと」に傍点]道で往《ゆ》きあった時のような、極《ご》く自然な言葉であった。尠《すくな》くとも、私にはそう感じられた。それは全然の初対面という訳ではなく、前からの顔見知りだったせいかも知れない――。それで、

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