いか、一瞬、寒む寒むとしたものを感じた私は、ほっと重い溜息《ためいき》を落したのと共に、鈍い音をたてた柱時計に気がついた。
『――じゃ、失礼します、どうも大変お邪魔してしまって……』
 嗄《しわが》れた咽喉《のど》から咳払《せきばら》いと一緒にいった。
『おや、そうですか』
 そういって、その男も気がついたように上げた顔は、思わずドキンとするほどの殺気を持って歪んでいた。その血ばしった眼、心もち紅潮させた蒼黒い皮膚の下には、悪鬼の血潮が脈々と波打っているかのようであった。
 私はその時確かに彼の周囲に慄然《ゾッ》とするような鬼気を感じた。
(この私でさえ、あの時は一思いにネネを殺して自分も死のうか、とすら思ったのだから)
 と、この男が、今|抱《いだ》いているであろう血腥《ちなまぐさ》い想像の姿が私にはアリアリと写るのであった。
 そして又、気の弱い私には、到頭《とうとう》それは実行出来なかったけれど、この、狂気染みた男なら、或はそれをやってのけるかも知れない、というありそうな怖れに、思わず胸の鼓動がどきどきと昂《たか》まって来るのであった。
 そしてそれが、このネネを囲んだ三人の間の、宿命なのかも知れぬ、とすら思われた。
 ――然し、その男は、思ったより落著いた口調で、
『や、どうも遅くまで引止めてしまって、却《かえ》って済みませんでしたね、もうお休みですか――』
 と、ゆっくりいって、淋しく笑った。
『いや――、どうも近頃少しも寝られなくて閉口しているんですよ』
 私も、さり気なく答えて、又タバコを咥《くわ》えた。
『そうですか、それは困りますね、こういう薬があるんですが、飲んでみませんか、よく利きますよ』
 そういうと、その男は、机の抽斗《ひきだし》から名刺を出して、その裏に、すらすらと処方を書いてくれた。受取って表《おも》てをかえして見ると、そこには「医師、春日行彦《かすがゆきひこ》」とあった。
 私は彼から懐中電燈を借りると、危なっかしい小径《こみち》を分けて、町へ帰って来ながら、まだ起きていた一軒の薬局へ寄って、
『この薬をくれたまえ――』
 といってから、
『この薬の中には毒になるようなものはないね』
 と確《たしか》め、
『ございません、神経衰弱の薬として、立派な処方と思います』
 そういった薬剤師の言葉に、あのゾッとするような顔は、ネネ一人に向けら
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