思って愛しました。しかし、彼女は、私が仕得《しえ》られるだけのことをして、どうにか世の中に出したかと思うと、すぐ次へ移って行ったんです、あの大劇場の支配人だという木島のところへ――。あの男の地位は、ネネにとって大変役立つことに違いありません、だから、ネネにとっては、私などよりも、ずっとずっと強い吸引力を持つその地位に引かれて行ったのも、考えてみれば無理からぬことなのですけど、でも、お羞《はず》かしいことには、とり残された私は、神経衰弱になってしまったというわけなんです――』
 思わず饒舌《じょうぜつ》に、さも悟ったかのように、そういった私は、ここで笑って見せねばならぬ、と知ったが、わずかに片頬《かたほほ》が痙攣《けいれん》したように歪《ゆが》んだきりであった。
『そうですか――』
 しばらく経って、その男は重たげに顔を上げた。その額《ひたい》には、この世のものとも思われぬ、激しい苦悩のたて皺《じわ》が刻込《きざみこ》まれ、強いて怺《こら》える息使いと一緒に、眼尻から顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》にかけての薄い皮膚がぴくぴくと顫《ふる》え、突然気がついたようにタバコをつけると、スパスパと咽喉《のど》を鳴らして吸った。
『そうですか、ネネは、ネネはもう僕を忘れてしまったのですね……僕はネネの為に、囚人のような生活を苦しみつづけて来たのだけれど、ネネはそれを待っていてはくれなかったのだ、
 同じ女を愛し、そして、その女から飛去られた二人が、偶然に邂《めぐ》り合うとは……』
 其処《そこ》で二人は、無意味に、
『ふふふふ……』
 と笑合《わらいあ》ったが、それもすぐに杜絶《とだ》えてしまった。
 深閑とした部屋の中に、天井から蜘蛛《くも》のようにぶら下った電球《たま》の下で、この哀れな二人の男は、不自然に向き合った儘《まま》黙々として畳の目を睨《にら》み、タバコをふかしていた。
 それぞれの胸の中には、あのネネの姿体《したい》が様々なかたちで浮《うか》び出《いで》、流れ去っていた。
 が、そればかりではなく、私はこの偶然な邂逅《かいこう》という宿命的な出来事に、ひどく搏《う》たれてしまったのだ。そして、この寂しい部屋の中にまで響いて来る風の音、潮のさわぎまでが何かしら宿命的な韻律をもって結ばれているのではないか、と疑われて来るのであった。夜の更けたせ
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