《はば》で、ドアーの奥に消えて行った。
と同時に、私は思わず外聞も忘れてホッと溜息をついた。が、この美しい彼女の歩き方には、何処となく少々ぎこち[#「ぎこち」に傍点]ないところがあったように見えたのだが、それは、後で思いあたったことである。
地底の研究室
「ふっふっふっ……」
鷲尾老人は、そう忍びやかに笑うと
「だいぶ、参ったようですナ」
そういわれて我に還った私は、いつになく耳朶《みみたぶ》がぽっと※[#「赤+報のつくり」、178−5]《あか》らんだのを意識しながら
「いや――。それはそうとさっきの式の中にですねKというのがあったようですが、それはどんなことを表わしているんですか」
「はッははは、早速この式を利用しようというんですか――、なるほど、なるほど、はッははは、Kというのはね。或る係数ですよ、これは、その時の状態によって加減しなければならん[#「しなければならん」は底本では「しなけれならん」]数を表しているんです――、が、まアあの木美子《きみこ》だけはお止《よ》しなさい、木美子の場合にとっては、この係数が零《ゼロ》なんですよ、だからこの式に零《ゼロ》をかければ、結局全部が零《ゼロ》になってしまって、一向に反応がない、ということになりますからネ」
「しかし……」
私がいいかけた時に、又ドアーが開いた。
現われた彼女は、さっきと同じように四ツ足半の足巾でドアーからのテーブルに来、左手でグラスを置いて、又機械のように正確な足巾でドアーの奥に消えて行った。
「おや? 彼女は左ぎっちょ[#「ぎっちょ」に傍点]ですかね」
私が呟くのを聞いた鷲尾老人は、何を思ったのか
「えらい! 君はなかなか見所があるですぞ――」
私がびっくりしているのも構わずに
「うむ、なかなか観察が鋭い、君ならば或いはわし[#「わし」に傍点]のいうことがわかってくれるかも知れんナ――どうじゃ、わし[#「わし」に傍点]の研究室に来て見ないかね」
「いや――、しかし……」
「遠慮は無用。君はわし[#「わし」に傍点]の人物試験にパスしたんじゃ……だからいうが、わしはこのバーの主人なんじゃよ」
私は、あなた[#「あなた」に傍点]から君に変り、そうじゃ[#「じゃ」に傍点]、そうじゃ[#「じゃ」に傍点]という老人臭い口調に変り、そして又、このバーの主人なんじゃと名乗られたことに、いささか面喰《めんくら》ったかたちであったのだが、
「なアに、研究室といったって、この奥じゃよ、それに、助手としては、あの木美子一人きりじゃからナ、遠慮することはないよ」
という説明を聞かされて、行って見るだけでも行って見ようか、という気が起って来た。それは老人への好奇心ばかりではなく、あの木美子という美少女が助手である、ということに魅《ひ》かされたのであることが、もっと大きな原因でもあった。
「――そうか、ではすぐ行って見るかの」
そういうと鷲尾老人は、先きにたってドアーを潜った。年齢《とし》は幾つ位かわからなかったけれど、そんな言葉使いをしたり、こうして先に立って歩いているのを見ると、少くとも六十は越しているらしかった。(木美子というのは十八九に見えるけど、この老人の娘かな……それにしては余り似ていないようだが……)
などと考えながら、私は従って行った。ドアーの奥には小さい棚があって、洋酒の壜が申訳ばかりに七八本並んでいるきりで、彼女の姿はなかった。とにかくこの棚は、一寸した酒呑みの台所にも劣る心細いバーである。
私は、急に酔いが覚めるような、肌寒さを襟に感じた。そういえばこの細い道は、地下室からなおも下りになっていて、やがて素人が削ったような無細工な階段を下りると、その終るところの横に、煉瓦を抜取った口が開いていた。
「妙なところにあるんですねえ」
私は、少しばかり自分の好奇心を後悔しはじめて来たが、老人は一向に平気で
「なアに君、これは震災の時に出来た断層なんじゃよ、そこを一寸手入れしただけでネ……なかなか便利じゃ、第一他人に見られる心配はなし、実験用の電気はロハときとるからの」
「ロハ――?」
「ふッふッふ」
鷲尾老人は、その銀髪の顔に含み笑いを見せて、傍らを指さした。見ると地中に埋められてある筈の地下ケーブルが一部分露出していてそこから電線がこの所謂研究室に引込まれているのであった。
私は恐る恐るその研究室を覗いて見た。しかし、残念なことには、そこにも木美子の姿はなかった。そして名も知らない電気機械の類がその六畳ばかりの狭っくるしい部屋一杯に置かれてあるきりであった。ただ、その部屋の周囲には薄緑色のカーテンが張りめぐらされてあることだけが、どうやら彼女の趣向らしく思われる。もしこのカーテンがなかったならば、この研究室は、まるで土窖《あなぐら
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