いる老人であった。十年一日のような疲れた黒洋服、申訳ばかりのネクタイを絡みつけた鼠のワイシャツ――。だが卵で洗ったような見事な銀髪と、時々挙げる顔の、深い皺をもった広い額とは、ふと近より難い威厳を見せてもいた。
 私の方では、はじめから気がついていたのだが、老人の方では、ややしばらく経ってからやっと気がついたらしく――、しかし気がつくとすぐ椅子を立って私の方にやって来た。そして、何かと話しかけるのである。
 はじめのうちは、都会人らしく打解けずに、肩を聳《そびや》かしていた私も、この老人の、様子に似合わぬ若々しい声と、それに私自身、いつになくアルコオルが廻っていたせいか、何時の間にか受け答えをしてしまっているのであった。
 すると、この鷲尾と名乗る老人が、凡《およ》そ不似合な恋愛にまで触れて来たのである。
「河井さん――、といいましたね、いかがです、恋愛についての御意見はありませんか」
「レン愛――?」
「そうですよ、男女の――。お若いあなただ、豊富でしょうが」
「いや、そんなもんありませんよ、ほんとに」
「おやおや。そうですかなア……。でも、その恋愛の本質について、考えられたことがありませんか、――例えばですねえ、電気って奴は、陰と陽とがあって、お互いに吸引する。が、同性は反撥する――ネ、一寸、似てるじゃありませんか。一緒になるまでは障害物を乗越えて、火花を散らしてまでも、という大変な力を出しながら、さて放電《ディスチャージ》してしまうと、淡々《たんたん》水の如く無に還るという――、面白いじゃありませんか」
 鷲尾老人は、なかなかに能弁であった。時たまグラスを口に運ぶだけで、この奇妙な恋愛電気学を、ながながと述べはじめたのである。
「あなたが、恋をしたとしますよ、するとですね、彼女があなたを如何に思っているかというのが、気懸《きがか》りでしょう。そして、よりよく想ってもらいたい、と思いませんか、それが人情ですね、しからば――ですネ、一体どうしたらいいか、どうしたならば彼女の気持を、あなたに対して増大《エンラージ》させることが出来るか?」
 それは教師が、起立を命じた生徒に、ものを問い糺《ただ》すような、口調であった。
 私は弱って
「さあ――」
 と、口籠《くちごも》っていると
「わからんでしょう――。それは人間の方から考えるから解らんのですよ、さっきいったように
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