それが、真夜中なんかに、ふいとお出掛になられますので、ハッキリ申し上げられませんけど、今日は御食事のお知らせもございませんし、……多分お出掛と思いますけど……』
『兎《と》に角《かく》』私は(ここまで来たついでだ。)
と思うほかに、いよいよ不安が増して来たので
『兎に角、一度その部屋をみせてくれませんか――』
とばあや[#「ばあや」に傍点]に案内してもらって、その部屋へいってみた。
成るほどその部屋は、頑丈な、分厚つそうな樫のドアーに堅く閉され、一寸、押してみた位ではびくともしなかった。
耳を澄ましてそのドアーに押しつけてみると、中ではただタチタチタチと、時計の音が絶え絶えに響いているばかりであった。
(一体、これはどうしたというのだ……)
私は、むくむくと入道雲のように拡がる不安と、様々な想像とを倍加されただけでむなしく帰らなければならなかった。
三
暗い夜霧の下をくぐって、私がアパートに帰りついた時だった、アパートの入口の事務所のおじさんが、
『一寸、お留守にこの方が見えましたよ、……顔色の悪い人ですねェ――』
と差し出された名刺には、「黒住箒吉」と鮮やかに印刷されていた。私の目には、その文字がピョコンと飛出してみえた。
周章《あわて》て裏がえしてみると、名刺の裏には鉛筆のはしり書きで――御無沙汰失礼。お留守で残念だった、重大な要件で、是非一度会いたい、明日午後六時銀座ナイルで――
と、簡単に書いてあった。
(行き違いだったのか)
(それにしても、重大な要件とは――)
でも、あした[#「あした」に傍点]の六時にはすべて解決するだろうと思った。
四
先刻、 ! ! ! ! ! !
と、喫茶店ナイルの時計が、私の肩の上で鳴ったが、黒住は、まだ現れなかった。
総硝子張りの、温室のような近代構成派の喫茶店ナイルは光々と白昼電燈に照らし出されていたが、硝子戸一枚の外はあの銀座特有のねっとりとした羊羹色の闇が、血管のようにくねくねと闇にはしるネオンサインを小さく瞬《また》たかせながら垂れ罩《こ》めていた。
もう冷えきったコーヒーのカップを口に運ぼうとした時だった。冷ッとする空気と一緒に、ドアーを押しあけて、はいって来た男があった、一目で私は
(黒住――)と直感した。
黒住は、薄く笑いながら、私の前の椅子に腰を下ろした。
『しばらく、待った……きのうは、行き違いになってしまって――』
私は、黒住が来たら、いまの今まで、約束の時間を無視したことを、詰ってやろう、と心構えにしていたのだが、一目彼の様子を見ると、その余りに憔悴《しょうすい》した容貌に押されて、口を噤《つぐ》んでしまった。
その高く突出した頬骨の下に、洞穴《ほらあな》のように落ち窪んだ頬、いつの間にか老人のように蒼白くたるんでしまった皮膚、どんよりと灰色に濁った瞳、それらと奇怪な対照をなす真赤な薄い脣――これらは一体、何を語るのであろうか……。
『どうしたんだい君、病気なのか――』
『いいや』
黒住はだるそうに、口を動かし始めた。
『手紙の返事も出さないで、悪いとは思ってたんだが、何しろ、今、一寸重大な実験をしてるんでね――』
『重大な要件、っていうのは』
『それなんだ、実は、僕はもう長いことないかも知れないんで、君に、色々頼みたいこともあるんで……』
『バカな――』
私はそれとなく、さっきから黒住の薄い影を気にしていたので、思わず大きな声でその不安をはね飛ばそうとした、だが黒住は案外落着いて
『いや、ほんとうだよ。でも僕は命なんか惜くないと思ってるんだ――といきなりいったって、君には解ってくれまいけど』
『どんなわけなんだ一体、はじめからいってくれ給え……』
『うん……』
黒住は軽く咳き込むと、すぐ続けた。
『実は、いま人間は眠らないでも、いいという実験をしてるんだ……』
(この男、気が狂ったのではないか――)
私は、しげしげと彼の顔を見直した。
『そういったって、君は信じてくれないだろうけど、これは実際なんだ、現に実験中なんだ』
『君。バカなことをいっちゃいけないぜ、しっかりしてくれよ、一晩徹夜したって疲れてしまうのに、眠らないでいられるもんか――』
(バカバカしい) 私は吐出すようにいった。
『いや』 黒住は、平然と続けた、
『君、そんなことをいうのは認識不足だよ、一寸例をとれば――ほら君自身だって経験があるだろう、四月までは八時半始業だった学校が四月からは八時になる、三十分早くなれば三十分早く起きればいい、それは二三日つらいけど、すぐ馴れちまう、それだよ、この習慣というやつを利用するんだ、これなら出来るだろう――』
(それはそうさ、三十分位――)
『それを考えたら出来る筈じゃないか、あした[#「あ
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