はその椿の葩《はなびら》のような唇を二三度動かしたけれど、それは喋るつもりではなくただ微笑んだものらしかった。
「この近くに家があるんですか、実はぼく迷っちゃったんですよ、熊野川の方に出ようと思ってたんですが、そっちに行くにはどんな見当でしょう……」
「…………」
 しかし彼女は、矢張り微笑んだきりだった。
「ご存じないんですか――」
 彼女は、すんなりとした透き通るような手を挙げた。そして、どちちかの方角を指そうとしたに違いないのだが、突然、さっき川島とぶつかった時のような強張《こわば》った表情になったかと思うと、挙げかけていた手を何時の間にかするりとおろしてしまっていた。
 と同時に川島は、背後《うしろ》の方から森の中を踏分けて来る跫音を聞いて、思わず振り向いた。

      三

 森の中から近寄って来たのは、もう五十がらみかとも思われる男だった。垢によごれたズボンとシャツだけをつけ、胡麻塩の無精髭に覆われた男の、眼だけは敵意かとも思われる激しい光りを持っていた。
 そして、その眼つきで川島の全身を点検するように頭から足許まで静かに見下した。川島は、その鋭い視線を受ける度に、丁度体の其処に触られたような無気味さを覚えた。これが彼女とは逆に、この男に先に逢っていたのならば、川島は疾うの昔に崖を駈|上《あが》ってこの地図にない沼のほとりから退散していたに違いないのだ。
 だが今は、黙って退こうという気持は、一向になかった。
 寧ろ精一杯の好意の微笑を浮べて
「どうも道に迷って弱っちゃいました。この近くに村がありましょうか」
 と問いかけた。しかし胡麻塩の男は、それを聞き流して、もう一度|疑《うたぐ》り深い眼つきで川島を見廻してから
「ない、村なぞは無い」
「ほう――」
 川島は、此処へ来て、はじめて人間らしい返事を聞くことが出来、一層微笑することが出来た。
「ほう、じゃこのお二人はよっぽど遠くから来られたんですか」
「いや――」
「へえ、どういうわけですか」
「わし達は、この近くにおる」
「はあ? するとこのお二人だけで山奥に住っていられるというわけですか」
「ふむ」
「ここは一体、何《ど》の見当なんでしょうか、この沼も地図に載ってないようですが……」
「載っておらん。載っておらんというのもわしが造ったからだ」
「造った――?」
「ふむ、水の出口を堰止めて雨水を溜めただけのことだ」
「へえ、大変な事業ですね、何かよっぽどの研究でもされているんですか」
「ふむ――」
 その男は、もう一度川島の顔を疑《うたぐ》るような眼つきで見廻したけれど、しかしそれは彼の微笑に押しかえされてしまった。
 そして無意味に二三度頷くと
「君に果してこの画期的な事業が呑込めるかどうかはわからん、が、興味だけは持てるに違いない――、つまり其処にいる洋子に関することだからね」
 そう真正面《まとも》にいわれた川島は、又あわてて笑いを浮べたのだが、それは片頬が纔《わず》かに顫えただけの、我れながら卑屈なものであった。そして、照れたように後の洋子を振りかえって見ると、彼女は、まださっきのままに舳先に腰をおろしてい、真黒な瞳《め》をあげて、川島の汗の泌出た背中をジッと見詰めていたようである。
「ふむ、尠くとも君は悪い人間ではないらしい、信用しよう、いや歓迎しよう、ぼくは何も自分独りでこの素晴らしい新しい世界を独占しようとは思っておらんのだからね、というよりか君のような青年に、大いに語りたいのだ、年をとった者は駄目だ、年をとった者は何んでも自分の常識の中でしか行動しない、自分の常識以上のものは何事によらず変った眼で見ようとする、ぼくが此処で変った生活をしている理由をいって聞かせても、テンから信用しようとはしないのだからね、――けれど、君はそれを聞いてくれるだろう?」
 胡麻塩の男は、その風貌に似合わぬ若々しい言葉と声で話し出した。その話しぶりから察すれば、この男は前にも誰かに自分の変った謀《たくら》みについて語って、全く相手にされなかった不満さを持っているらしい。
 しかし川島は、真面目に頷いた。この男がともかく谷間を堰止めてこれだけの沼を造ったという奇妙な仕事も、傍らにいる美しい洋子に関することならば聞いて決して悔いないように思われた。寧ろ自分の方から聞き訊ねたいくらいであった。
 此処ではじめて初対面らしい挨拶を交して、川島はこの男が吉見という名であることだけはわかった。そしてその言葉つきからこの辺りの者ではなく、関東――というよりも東京に若い時分を送ったのであろうということも、想像がついた。
 吉見は、しばらく眼を伏せていた。それは何からいい出そうかと迷っているようにも見えた。
 が、間もなくその太い静脈の絡みついた手を挙げると
「ともかく、あれを見た
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