まえ……」
 指差された森の繁みの中には、まだ何も見えなかったけれど、そういえば誰かが近寄って来るらしい、幾つかの跫音が、動きのない空気を透して、静かに伝わって来る。
 川島はじっと眼を灑いで待っていた。そして、ちらちらと人影が見え、最後の太い柏の幹の裏から、くるっと廻ってその全身をあらわした二人の少女が眼に泌みた途端、無意識に、低くはあったが、呻きに似た声を洩らしてしまったのだ。
 まったく、想像も出来ない人影だった。奇蹟だった。
 そこには、もう二人の『洋子』があでやかに立っているのだ。
 川島は、愕きというよりも、恐怖を覚えた。汗をかいたままでしばらく立止っていたせいばかりでなく、何か全身に濡れたような冷めたさを覚えた。
 そして、この周りをとりまく森という森の茂みの中には、何千何百という無数の『洋子』が充満し、一斉にワッとばかりに飛出して来るかのような眩惑にさえ襲われた。
 しかし、夢でも、手品でも、幻術でもないのだ。沼の上の、森を刳ぬかれた青空には、南国の太陽がギラギラと輝いているのである。

      四

 この人里離れた山の中の、鬱蒼たる森に囲まれた沼のほとりで、聊か流行おくれとはいえ碧羅のワンピースを纏った美少女と、胡麻塩の髭をもった吉見という男に、めぐり遇ったことからして偶然といえば偶然な出来事であったのに、その上に又、洋子と呼ばれる一眼で若い川島の心を摶った美少女と、そっくり同じ、まったく其儘な美少女が、あと二人も現われて来ようとは、その場に居、この眼で現在自分が見ていながら、なかなかに自分を信じ切ることが出来なかった。
 あとから現われた二人の少女も、洋子と同じような碧《あお》い薄物のワンピースを着ていた。たった一つの違いは、この三人のワンピースに縫取りしてある模様が、菊と薔薇と百合と三種類になっていることだった。最初の洋子に、菊の刺繍があったことを覚えていなかったならば、そして洋子がボートから降りてあとの二人の中に混ってしまったならば、川島は二度と彼女を見分けることが出来なかったに違いないのだ。
 つい先刻《さっき》まで川島は、一眼見た洋子の美しさと好もしさを、都会の無数の女の中に混ぜこんでも直ぐに見分けられると思っていた。だが、それはどうやら怪しくなってしまった。
(洋子たちは三つ児だろうか――)
 双生児《ふたご》ということはよく聞くことだし、川島の知人の範囲にも一組はあるのだが、三つ児というのは見たこともないし、あまり聞いたこともない。けれど五つ児ということもあるのだから決して荒唐ではない、いや、現在のこの場の奇妙さを説明するとすれば、そう考えるより仕方がなかった。
 それにしても、このそっくり同じな三人の少女と共に、こんな山奥で吉見という男は何を企んでいるのであろうか。
 川島の困惑に満ちた、遣り場のない眼が、やっと吉見の顔に止ると、吉見はそれを待っていたかのように、胡麻塩の髭に埋《うず》まった口辺《くちべり》を歪めて、白々と笑った。
「……君は結論から先きに這入ってしまったのだよ、この有様は、君をひどく愕かしてしまったらしいね、左様、宝石がだんだんに磨かれて行ったことを知らずに、いきなり出来上ったものの輝きに愕いているんだ」
「…………」
 川島は黙って吉見の顔を見詰めていた。返事が思いつかなかったのだ。
「よっぽどびっくりしているらしいね、まあいいさ一緒に来たまえ、すぐそんな疑問なんか棄ててしまうだろう」
 そういうと、吉見はもと来た森の中に帰りはじめた。川島は黙って頷くと、下してあったリュックサックを片肩にかけ、そのあとに続いて行った。
 まだ柏の幹のそばに佇んでいた二人の少女は、はじめて気がついたように、しかし相変らず無言のまますんなりと避《よ》けて、細い径《みち》を譲ってくれた。川島はその傍らを通り抜けた時に、何か、咲き乱れた花束のような匂いを感じた。
 径は、絶え絶えに細くつづいていた。径というよりも、少しばかり踏みかためられた木々の間を、心もち右肩を落して歩く吉見のままに従って行った感じだった。
 が、案外に早く崖が切れて、丸太造りの小屋についたのは沼のほとりから二三分のところであろうか。
 その小屋は一寸見たところ四五坪ぐらいのもので、ひどくお粗末な別荘といった感じだった。
「母屋《おもや》はも少し向うだけれど、まあここでお話しましょう、ここの方がいい」
 吉見はそんなことを呟くと、蝶番が茶色の粉を吹いたように錆ているドアを押して、招じ入れた。
「ここはわしの植物学研究所なのだ、尤も所長兼小使だが……」
 冗談らしくいったが、なるほどそういわれればその一部屋きりの小屋の中には、試験管だの、フラスコだの、顕微鏡だのそういった器械類が、丁度中学の時の化学教室を思い出させるような恰
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