目を投げた。
 暗灰色の密雲《みつうん》は、みっしりと空を罩《こ》め、褪色《たいしょく》した水彩画のようなあたりには「豊さ」というものは寸分も見出せなかった。木々の小枝に到るまでキンと尖鋭した冷たさと、淋しさを持って顫《ふる》えているのであった。
 そして何者も生気をもたぬ地上では、一個の狂人と、一個の失意に歪《ゆが》められた男とが、黙って向き合っているのだ。
(何か不吉なことが起りはしないか)
 そんな気が、何処ともなく漂っているように感じられるのであった。

      四

『僕は――』
 到頭《とうとう》その男が、暫くの沈黙を破って、話し出した。
『僕は、人殺しをしたんですよ。だけど誤解しないで下さい、僕は人殺しをした事を悔んでいるんじゃありません――これは寧《むし》ろ得々としてあなたにお話できる事です、然《しか》しです。まあ聞いて下さい。私は一昨日、銀座の大通りで人殺しをしたんですが――』
 中田は、思わずグッと身を固めると、忙しく頭を働かせた。だが中田の記憶がたしかならば、一昨日は銀座で、そんな事件があった筈はなかった、――なぜならばそんな事件があれば、屹度《きっと》新聞に、デカデカと報道されるに違いないし、又雑誌記者という職掌柄、そんな記事を見遁《みのが》すはずもないからである。――矢張り気違いだな、中田はそう思った儘《まま》、その話を聞き続けた。
『――それで、僕は一昨日家へ帰ってから、あんまり愉快だったもんですから、大声で、銀座の人殺しを吹聴したもんですから、莫迦《ばか》な奴等に無理矢理、押えつけられた、と、思ったらあの病院にはいっていたんですがね――まあ、そんな事はいいとして――その人殺しの模様をお話しましょう……』
 中田は聞くともなく聞き続けている中《うち》に、宿酔の頭は妙に縺《もつ》れ、また自分がそこいらを、ひょこりひょこりと歩き廻っているような気がしたりバカに咽喉《のど》が乾くと呟いてみたり、或《あるい》は又、重なり合い折れ朽《くち》ている雑草の上を黝《く》すんだ空気が、飄々《ひょうひょう》と流れ、彷徨《さまよ》うのを鈍い目で追跡し、ヤッと手を伸ばせば、その朽草《くちくさ》の下の、月の破片《かけら》が、とれるのではないか――と思われるのであった……
 だが、その男の「短刀」という言葉に、フト話しの続きに呼び戻された。
『――僕は思わず持っていた短刀を握りしめたのです。しばらくすると、あいつ[#「あいつ」に傍点]到頭《とうとう》、濡れた雑巾のようにくしゃくしゃになって死んで仕舞ったんです。その時の気持、それはなんといったら言い表わすことが出来ましょう。僕はこの瞬間、思わず頭のクラクラする恍惚感を感じたのです。真赤な血の海の中をひくひくと動く蒼白な肌の色は何人《なんびと》も描くことの出来ない美の極地ですね』
 こういって、その男は、軽く一息ついた。そして腐った無花果《いちじく》のような赤黒い唇を一寸舐め、中田の顔を覗き込んで、ふ、ふ、ふ、と小さく笑うのであった。
 中田は思わず感じたゾクンとしたものを押隠そうとして、周章《あわて》て
『君、君はいつも短刀を持っているのかい』
『持っていますよ。人殺しは短刀に限ります。ピストルなんかで遠くからやったんじゃ、ちっとも感じが出ませんや、ぬめり[#「ぬめり」に傍点]とする肌にこれ[#「これ」に傍点]が喰い込んで行く時の快感が僕をぞくぞくさせるんです――』
 その男は中田の目の前に、何処に持っていたのか、一|振《ふり》の短刀を突き出したのだ。
 この悪に麻痺《まひ》した狂人が短刀を持っている――それは中田に取って、恐るべき事実であった。中田は思わず飛び立って遁げだそうとした。
 だが、失恋というものが、こんなにも感傷的な気持を誘うものだろうか――中田は今、沁々《しみじみ》とそれを体験した。
『何をいいやがる、殺せるものなら殺してみろ』
 中田は思い切り大声で呶鳴《どな》った、然し、それは妙にかすれた、うわずった声であった。
『何、僕では殺せないというのか』
 狂人は短刀をしっか[#「しっか」に傍点]と持ちなおした。そして、よろよろと立ち上ると、もう二つの影はもつれ始めているのであった。
 ――やっと持ちこたえていた暗灰色の空からは、もうまち切れぬように、身を切るような霙《みぞれ》が荒涼たる原一面を覆って、しょぼしょぼと降り出して来た。折れ朽た雑草に、積り古《ふ》りた落葉に、霙の解け滲《にじ》む陰惨な音は、荒れ果てた曠野一面に響くかと思われた。そしてまた、薄黒い北風が、なお一層激しく吹きつのって来た……
      ×
 翌日はうらうらとした小春日和が、なごやかに訪れて来た。新聞の朝刊には「失恋自殺」と題して中田の死が、彼の最後の感傷を裏切って、たった二三行で簡単に
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