暗澹《あんたん》たる夜《よ》の帷《とばり》に覆われるのも、もうさして長い時間がかかろうとは思われなかった。
中田は淡い後悔と伴に、なんともいえぬ苛立《いらだ》たしさを感じてきた、そして、ついに語気を強めて、その男に訊きかけた。
『君。一体何処へ行くんだ、駅はまだなのか』
その男は、きょとん[#「きょとん」に傍点]と、中田の顔を見返して
『駅? 駅へ行ってどうするんですか』
『駅へ行って、帰るんじゃないか、この寒いのに僕をどこへ連れて行こうというんだ』
『そうですか、私はまた、あなたが僕の話を聞いてくれるというんで、非常に嬉しかったんですがねェ。誰も僕の話を聞いてくれないんですからね、どうですいい景色じゃありませんか。も少し一緒に歩きましょうよ』
『莫迦《ばか》な、君は一体気違いなのか』
中田は思わず腹立ちまぎれに怒鳴った。
『気違い?』
その男は気違いといわれると、急に眼に妖しい光を浮べながら
『誰でも僕のことを気違いというんですよ。世の中なんて利己的な奴ばかりだ』
彼は如何《いか》にも慨嘆《がいたん》に堪えない、というような顔色をみせた。そして
『それどころか僕を、到頭《とうとう》犯罪狂だといって、気違い病院へたたき込んだんです。……屹度《きっと》あいつらの仕業《しわざ》なんだがね……それが昨日ですよ。だけど現に気違いでない僕には、到底あんなところにいられませんよ。だから今朝看護人の隙《すき》を見て遁《に》げだして来たんです、ざまあみやがれだ』
その男はそういうと、如何にも可笑《おかし》そうに、不遠慮な大声を上げて笑い出したのであった。
その不規則な狂人の笑い声を聞くと同時に、中田は、後頭部にスーッとしたものを感じ、先《さ》っきから何かしら得体の知れぬ、不思議な戦慄の原因が、やっと解ってきたように思われた。
何という莫迦なことをしたのであろう、中田はそう思った。例え失望と無茶酒で、頭が平衡を失っていたとはいえ、俺はこの気違いと一緒に、何時間かの間この荒野を彷徨《さま》よい、狂人の奇怪な幻想の数々を、如何にも感心しながら聞いていたのか、と思うと何んともいえぬ莫迦莫迦しい腹立たしさを感じたのであった。
(莫迦にしてやがる――)
中田は、ぶつぶつと悪口《あっこう》を呟《つぶや》きながら、顔をそらすと、ハッキリした当《あて》はないのだが、どうやら駅らしい方へ、どんどん歩き出した。それを見た男は、急に周章《あわ》てたように
『君、君――』
と後《あと》から呼びかけた。だが中田は、もう返事どころか、振向きもしないで、ずんずん先の方へ歩き続けていた。
三
中田は歩きながら、茲《ここ》この頃、ひどく不運つづきの自分自身に、全く愛想がつき果てて思わず大きな溜息を排《は》き出した。
こんな荒涼とした、人っ子一人見えぬ、冬の暮れかかる原野で、人もあろうに、狂人の話相手にされるとは――
あ、そういえば、今あの男は、病院から看護人の隙《すき》を窺《うかが》って、遁げて来たんだといっていた――すると……。
中田はどうやら、この荒涼たる原が、どの辺だかを、朧気《おぼろげ》ながら想像することが出来てきた。彼の考えでは、ここは確かK――電車の沿線、松沢駅から程遠からぬ多摩川よりの所ではないか、というのであった。なぜならば、そう考えると、その附近にはあのK――という有名な精神病院がある筈だからである――。
中田が、やっとここまで考えて来た時、グッと肩を引き戻されたと同時に、耳元であの狂人の言葉を聞いた。
『君、君、遁げなくてもいいだろう――、も少し話そうよ』
『あ』
(了《しま》った――)
中田は、押えられた手の下の肩に、気味のわるい汗を感じた。自分ではどんどん歩いていた積りであったが、いつの間にかぼんやりとした頭は、考えることに気をとられて、又ぶらりぶらりと歩いているところを、追いつかれてしまったものであろう。ああ俺は、なんという間の抜けた、だらしのない人間なのだ。
中田にはもう腹立たしさを感ずる前に
(どうでもなれ)
という棄鉢《すてばち》な気持が発生《わい》て来た――その中には、多分、この辺がやっと見当のついて来た安堵もあったろうが――。
『よし、君の話を聞いてやろう』
中田と、その男とは漸《ようや》く、荒れ寂《さび》れた原を抜けて、すっかり落葉してしまった雑木林にかかっていた。
『まあ、少し休みましょうや』
その男はこういうと、降り積った落葉《おちば》を、ガサガサとくだきながら、腰を下ろした。それを見た中田も、急に今日一日の疲労を感じて、投げ出すように腰を下ろすと外套を透《とお》して尻の下の落葉がカサカサと妙に乾燥した音を立てながらくだけるのを感じた。
中田は、見るともなく周囲へ懶《もの》ぐさい
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