古傷
蘭郁二郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)先刻《さっき》
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 ――私は自分の弱い心を誤魔化す為に、先刻《さっき》から飲めもしない酒を飲み続けていた。
 第三高調波《サードハーモニックス》を描く放送音楽《ラジオミウジック》……
 蓄電器《コンデンサアー》のように白々《しらじら》しく対立した感情……
 溷濁《こんだく》した恋情と、ねばねばする空気……
『なに考えてんだィ、さあもう一杯』
 内田君は、兎もすれば沈み勝ちの私を、とろんとした眼で見据えながら、ビールのコップを取上げた。
『うーん』
 私は熱っぽい目を擦りながら、手を出し
(あッ……)
 ドキン、胸の中で音がした。
 突出されたコップの中には黄金色の液体を透して、内田君の右頬の小さな古傷が、恰度《ちょうど》レンズを透かして見た時のように、尨大にコップ一杯に拡がって浮出していた。
 而もその上、その傷は私が一時の興奮から殺《や》ってしまったあの迪子《みちこ》の傷とソックリで、捻れたような赤い肉の隆起が、蚯蚓《みみず》のように匍廻《はいまわ》っていた。
(……迪子ダ……)
 内田君がもぐもぐと口を听《き》く度に、沸々と泡立つコップの中で、その迪子がニタニタと頽《くずお》れるように嗤うのである。
『バカ』
 力一杯コップを叩き落した。コップは石畳《たたき》に砕け、細片はギラギラと鋭角的な光を投げて転がった。……ころんころんころんと部屋の隅まで転がって行く破片《かけら》のシツッコさ……
『なんでェ、俺よか、酔ってやがる』
 内田君は熱っぽい顔をして床を睨んだ。
 その右頬に小っぽけな古傷が、「知らん顔」してくっついていた。



底本:「怪奇探偵小説名作選7 蘭郁二郎集 魔像」ちくま文庫、筑摩書房
   2003(平成5)年6月10日第1刷発行
初出:「自由律」
   1932(昭和7)年7月号
入力:門田裕志
校正:川山隆
2006年11月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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終わり
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