からといって、そういう風に取られては困るんだがね、例えば長田君なんかも自分が加わっていないことだいぶ不満に思っていたようだったけれど、しかしここの研究所を空《から》にしてしまって皆んな支所へ行ってしまうというのはどうだろう――
 老所長は、窓から射込んで来る陽射しに、銀髪をきらきらと輝かせながら、そういう風に話していた。
 ――支所はあくまでも支所だ、一応精鋭をすぐって行くことは当然だけれど、しかしだからといって全部行ってしまっては困る、昭南島がいかに便利だとはいっても東京をそこに移すわけにはいかんようにね、東京は地理的には少し遠くはあっても、矢張りここで大東亜に号令すべきところだからね、同じことさ、ボルネオ支所にしたって実験的にはここよりも便利かも知れない、いや便利だからこそあそこを選んだんだが、しかし総括的な業績は、矢張り磁気学研究所としてここで号令し纏めなければならんと思うね、そのためには君とか長田君といったような人まで行ってしまうことはどうだろう、勿論出張は差支ない、事情の許すかぎりどんどん行って貰うつもりだ。大東亜の中心は矢張り東京だ、誰でも知っているそれだけのことさ――
 老所長の話は、大体そんなことだった。木曾は、ていよく祭り上げられた恰好で、なんとなく頷いてしまったのである。
 しかし時間が経つにつれて、木曾は自分がここに残ることになったについて、何故あんなにも呆然自失したのか、ということを考えて見る余裕も出来て来た。果してそれは本当に実験への情熱を裏切られただけだったろうか、それとも、ただ未だ見ぬ土地というものへの漠然とした憧れであったのか――、それが自分でもはっきりわからなくなって来た。実験ならここでも今までに相当なことはして来たつもりだ、しかも西欧科学と遮断されている今日、好条件の場所で、気鋭の者たちのあげるボルネオ支所の業績は、そのまま絶好の競争者を得た励みとして感じられぬこともないではないか。面白い――。
 磁気学研究所実験室主任木曾礼二郎は、時と日が経つにつれて、やっと元気を取り戻して来た。
「所長もいっていたがね、同じ赤道直下の場所でも、なぜボルネオを選んだかというとね、東漸して来た西欧文明は先ずジャバ島に上陸した、そしてジャバ島を殆んど西欧化して東印度で一番の開発された島としたんだ、そしてなおも東漸しようとしたがボルネオはまだ本当に手がつけられていなかった、だからボルネオは東印度の、いや世界の暗黒島といわれていた、しかし今度は東亜文化を西漸せしめなければならん、それには既に敵の手をつけた施設を流用するのもいいが、取りのこされていたボルネオに先ず東亜文化の一燈をつけるのも面白いじゃないか――とこんな風な、味なこともいっていたよ、それからその中には所長も出かけるといっていた、しっかりやってくれんと困るぜ、僕もここで、君たちに負けんつもりでやる」
「やります、僕は金《きん》の創造を、西洋の錬金術師が数百年かかって出来なかった金の創造というやつを、元素転換で工業的にやってのけたいと思っていますからね、現在のサイクロトロンといったものではまだまだとても駄目です」
 村尾は、その神経質らしい迫った眉に、真剣な色を浮べていた。
「うん、そうだね、現在のサイクロトロンじゃあまだ一匙の水銀を転換させるのにだって何日かかることだか……一グラム何千円という金を造っていては、金を造って破産することだ、はっはっは、――石井さんは?」
「さあ、私は、研究室の皆さんが病気をされないように、それだけを心がけたいと思いますわ、それ以上のことは出来そうもありませんし、病気をされることが一番つまらない無駄なことですものね……それが結局皆さんの研究に、直接ではなくてもお手伝い出来たことになりますもの」
「なるほど……」
 木曾は、この石井みち子を、今度のボルネオ行きの人選に加えて置いたことを、矢張り正しかったことと確信した。
 ともすれば、熱狂的になり易い若い所員たち(仕事の重大であるということを自覚すればするほど)の中に、この優しくしかも折にふれて男まさりの意志を示すみち子を加えて置いたということは、何んとなく、自分の打った釘が一本きいたことを知った時のように、満足であった。昂奮すると、紅潮せずにむしろ顔が蒼白となる村尾が、あの発表の日以来、殊に蒼白い顔をしているのを見ると、余計にそれが思われるのであった。

       四

 なんだか落着かない忙しさの中に、ボルネオ行きの所員たちが立って行った。発表されてから一ト月ほどの予猶など、瞬く間に過ぎてしまって、ただわけもなく遽《あわただ》しさの中に、若い所員たちがゴソッと立って行ってしまった感じだった。
 所員たちが行ってしまってから、二三日中はそうでもなかったけれど、一週間も立って
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