きのことかい、そりゃさっき所長も一寸いっていたように、つまりこの研究所のような、磁気学研究所といったものは、地球磁力の影響の尠いところがのぞましい、といって地球上では地球磁力の作用しないというところはないんだから、結局南北極から一番離れた、その両極の中間にある赤道地帯がよかろう、ということになるんだね、あんた[#「あんた」に傍点]も知っているだろう、一つの棒磁石があるとその両方の端が一番磁力が強い、真ン中はその両端に比べれば、ほとんど磁力がないといってもいい、両方が釣り合ってしまっているんだ、地球も形は丸いが、一つの丸い磁石だといっていいから赤道のあたりが一番両方の力の釣合っているところだね、勿論地球の北極と南極は、地図の上の極の位置とは違って、年中ふらふら動き廻っているんだから、――丁度、廻っている独楽《こま》の心棒の先きが、きちんと止っていずにふらふらするように――だから赤道が必ず真ン中だとはいえないけれど、しかしこの辺に比べたらずっとずっと平衡しているわけだ」
「東京と、そんなに違うでしょうかしら」
「違うね、第一そうだろう、東京あたりで磁石針の止ったところを横から見ると、きっと北を指している方が、下っている、決して平らではないんだ、これは東京が南極から離れて北極に近よっているために、北極の力を余計に受けているからだね、しかもこれはもっと北に行くほどひどくなって来て、北極に行ってしまえば磁石針の針は北を下にして突立ってしまうに違いない――、まあこれは激しい例だけれど、とにかく磁石針にすら地球磁力の差がはっきりと現われる場所では、それだけ僕たちの実験にも地球磁力の影響というものが加わっているということを考えなけりゃいけない、そんな意味でこの磁気学研究所の分身が、赤道直下にあるボルネオのポンチャナクから少し溯《さかのぼ》った上流に作られるというのは実に、寧ろ当然であるといってもいいじゃないかね」
「そうですわね、でも、何も知らない人から見ると、こんなジミな研究所まで南方熱に浮かされたように思われませんかしら……」
「はっはっは、まあそう思う者には思わせといてもいいさ、要するに南に行っただけの業績をあげればいいんだからね」
「ええ、でも木曾さんにまでそう仰言《おっしゃ》られると、なんだかこう、身動きも出来ないものを背負わされたような気がしますわ」
 石井みち子の真剣な顔を見ると、木曾は、微笑を返さずにはいられなかった。
 このボルネオ研究支所のことについては、かねてから所長から内々の相談があったことだし、支所行きの人選まで木曾が案を作った経緯《いきさつ》があったのに、いざ、発表されて見ると、木曾の案がそのまま用いられておりながら、肝腎の木曾自身が、どうしたことかその選に洩れているのである。木曾が呆然としてしまったのは、そのためだった。なんだか自分だけが、除《の》け者にされたような激しい失意に、一瞬、打ちのめされてしまったのだった。
 木曾は、新設のボルネオ支所で思い切り仕事がして見たいと、内心はりきっていたのである。そのために、人選については実験室からでも精鋭をすぐって置いたつもりである――、が、それが今は全く裏切られてしまったのだ。木曾は中庭を横切って自分の室まで帰って来るのに、まるで夢のような気持だった。自分の、この研究所に於いての仕事というものに、ここで終止符を打たれたような、何んともいえぬ落莫たる気持であった。
 しかし流石に、石井みち子を前に置いて、ひどく取乱したところを見せぬだけは、やっと落着きを持ちこたえていた。いや実は相当顔にも出ていたのであろうが、突然「ボルネオに行く」と申し渡されて昂奮に取りつかれていたみち子に、ただ気づかれぬだけだったのかも知れない――。そして木曾は、あの親友僚一によく似た貌《かお》立ちのみち子が、いつになく上気した顔を真正面に向けているのを見ると、却って、やっと自然に微笑が浮ぶほど、落着きを取り戻して来た。
「木曾さん、所長が呼んでますよ――」
 遽《あわた》だしくはいって来た助手の村尾健治が、ドアーを開けながら、いつになく弾んだ声でいった。
「ああ、そう――。村尾君もボルネオ行きだったね」
「はあ、お蔭様で……」
 村尾もまた、どう怺《こら》えても込上《こみあが》って来てしまうらしい微笑を、口のへりに顫《ふる》わせていた。
「まあ、しっかりやってくれたまえよ、石井さんも行くんだ、よろしく頼むよ」
「はあ、あの……」
「はっは」
 木曾は、笑った自分の頬が、ひくりと痙攣したのであわてて立上った。そして顔を外向けるようにしてドアーを潜《くぐ》って行った。

       三

 ――今度のボルネオ支所開設のために色々手配してくれたことは感謝するよ、しかし君がここに止《とど》まることになった
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