思います。諸君によろしくお伝え下さい。五月二十八日附――。

 石井みちこから木曾礼二郎あて私信。
 ――お手紙ありがとうございました、さぞお忙しいこととお察し申し上げます。こちらでは実験室の準備も一通りすっかり揃いました、附設の発電所も十分な電力を起してくれます、しかもその発電所は水力でもなく汽力でもなく、ディーゼル機関を使っておりますの、矢張り石油の豊富な土地だということがしみじみと思われます。さて、私の朗らかさが、もうそちらにまで知れてしまったのにはおどろきました、これでは悪いことは出来ません……といって、私が悪いことをしているというのではございません、私がそんなに、人の眼につくほど朗らかになったと申しますのは、兄の僚一が、この近くに駐屯しております部隊にいることを、つい先ごろ知ったからでございます。兄もまさかこのボルネオで兄妹が逢おうとは……と申してびっくりしておりました、一寸離れてはおりますが、いずれそのうちには暇を見てこの研究所にもまいることと存じます、その上で、木曾さまの方へも早速お知らせいたしたいと思っておりましたのに、なんだか逆になってしまって申訳ございませんでした。
 そのほかに、他に変ったことはございません。村尾さんがただ、体に障《さわ》らなければよいが、と思うほど仕事に夢中になっておられます、私などがこんなことを申しますのは、少し口はばったいことかも知れませんけど、村尾さんはまるで芸術家のようにロマンチストで、そして情熱家であるようでございます、これは前からもそういう御気象のようでしたが、こちらに来てなお一層そんな風に感じられます。科学者はロマンチストでなければいけない、夢のないところに発展はない、とは木曾さんのいつも仰言言って[#「仰言言って」はママ]いられたことですけど……。その村尾さんの気焔と申せば東京の夏のように湿度の高いところで、ちゃんと洋服を着てネクタイをしているなんて馬鹿気た話だ、ここは東京ほど暑いと感じないのに開襟シャツに半ズボンで何処でもとおるんだからね、などといっていられます。
 それから(これは又別なことでございますが)磁力線の曲線をオッシログラフに取っている時に感じたのでございますが、丁度これが地震計のような感じがいたしますので、これによって地震の予知が出来ましたら、例えば地震が起る前には地球磁力線に何んかの変化があらわれるとでもいたしましたら、これはどんなに面白いことでございましょう、ひょいとそういうことに気がつきましたら、急に地震計がほしくなりました、木曾さまのお考えで、やらせて見ようというお考えでしたら御一報下さいませ、でもこちらは地震の尠いところですし、本所の方でももうお考えになっているかも知れませんけれど。六月十三日附――。

       七

 村尾健治から木曾礼二郎あての私信。
 ――御健栄のことと存じます。僕の方もいよいよ準備が整い、ぽつぽつ実験に取りかかっております、原子爆撃による元素の変換……すでに成功している水銀の一原子から一個のプロトンを叩き出して金の原子にする……ということから取りかかろうと思っています、これは実に近代科学の一つの最高峰を示すものでありましょう、いや、そんなことを木曾さんに申すのは釈迦に説法ですからやめますが、しかしとにかくこの原子という眼に見えない微小なものを考える時に、僕はふと奇妙な気持に襲われるのです、水を幾つにも幾つにも分けて行って、遂に水として最後のものの分子となり、それを更に分ければ最早水ではなくて酸素と水素とになってしまう、その酸素と水素とは、要するに一つの中心の核のまわりを幾つかの高速度の電子がぐるぐる廻っているものである、そしてそれは殆んど空間で満《みた》されているといっていい、つまり物質の容積とか体積とかいうものは、結局はカラである、家やテーブルや犬を形作っているものは殆んどすべてが空所である(では何故に物が崩れて眼に見えないような点になってしまわぬかという理由は、御承知のように原子の内部の電子と核とが互に引き合い斥け合っているからなのですが)、しかしこれにも増して愕くべきことは、この絶対に崩壊しないと思われていた原子すらも、人間の力によって、例えばサイクロトロンの強力磁場を利用する爆撃によって、電子を核からもぎ離し、実際に於いてその物質を破壊することが出来るようになった、という僕現在の仕事のことなのです。
 僕はこの(眼に見えないから想像の上の)原子というものを考える時、実に不思議なものを感ずるのです、僕は今、ある非常な不安に襲われているのです(これは他の人だったら、或いは相手にしないことかも知れませんから、木曾さんにだけいうのですが)、その非常な不安――というものをいう前に、先ず大きさというものが一体どんなものか
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