歯刷子とチューブを掴み出してすぐあとに続いた。
       ×
「お食事です……」
 看護婦が部屋毎に囁いて行った。軽症患者はサン・ルームに並べられた食卓につくのがこのサナトリウムの慣わしであった。それは一人でモソモソと病室で食事するより大勢で話しながら食べた方が食が進むからであった。
「お早よう……」
「や、お早よう……」
 この病棟には患者が階上《うえ》と階下《した》で恰度《ちょうど》十人いたけれど、ここに出て来るのは私を入れて四人であった。それは私と美校を出て朝鮮の中等学校の教師をしている青木|雄麗《ゆうれい》とマダム丘子――病室の入口には白い字で「広沢丘子」と書いてあったけれど、皆んなマダム、マダムと呼んでいた。だが恐らく彼女の良人《おっと》は結核がイヤなのであろう、既《か》つて一度もここに尋ねては来なかった――と、も一人女学校を出たばかりだという諸口《もろぐち》君江の四人であった。
 さて四人が顔を合わすと、第一の話題は誰それさんは少し悪くなったようだとか、熱が出たらしいとか、まるで投機師のように一度一分の熱の上下を真剣に話し合うのであった、そして食事が済んでしまっても、食後の散薬を飲むまでの約三十分間を、この二階のサン・ルームから松の枝越しに望まれる碧《あお》い海の背を見たり、レコードを聞いたり、他愛もない話に過すのであった。その時はマダム丘子の殆んど一人舞台であった。白い、クリーム色に透通った腕を拡げて大仰な話しぶりに一同を圧倒してしまうのだ。
「今日は私も少し熱が出たわ……」
 一わたり雑談をしたあとで、何を思ったのかマダム丘子はそういって、私達を見廻した。
「どして……」
「どうかなさったの――」
 諸口さんは、心配気に訊いた。
「ほっほっほっ、月に一遍、どうも熱っぽくなるの」
「まあ……」
「ほっほっほっ」
 マダム丘子のあけすけな言葉に皆はフッと視線を外《そ》らして冷めたいお茶を啜った。私は青木の顔を偸見《ぬすみみ》ると、彼は額に皺を寄せた儘わざと音を立てて不味《まず》そうにお茶で口を嗽《うが》いしていた。
 青木は、ありふれた形容だけれど鶴のように痩せていた。彼は美校を卒《で》て、朝鮮で教師をしていたのだが、そこで喀血すると、すぐ休暇をとって、来た、というけれど、今はもう殆んど平熱になっていた。彼は朝鮮を立って関釜《かんぷ》を渡ってしまうと、もう見るものが青々として病気なんか癒《なお》ってしまったようだ――だけどまあこの際ゆっくり休んでやるんだ、などと言っていた。
 そして最近は専門の絵の話から、何時《いつ》とはなくマダム丘子の病室にばかり入りびたって、「マダムの肖像画を描くんだ」といっていた。諸口さんはそれについて何かいやあな気持を感じているらしく、そんな素振りを私も感じないではないけれど、私は、
(人のことなんか――)
 とわざと知らん顔をしていた、というのはお察しの通り私は諸口さんが好きであったのだ。で、青木――丘子のコンビがハッキリすればするほど……私もねたましいとは思いながら……それでも却ってあとに残った私と諸口さんの二人が接近するであろう、と、いかにも肺病患者《テーベー》らしい卑劣な利己的な感情を、どこか心の隅にもっていたからである。
       ×
 今日も、食卓が片附られてしまってからも、四人はその儘で話しあっていた。その話は結局私の考えていたように、青木と丘子とが冗談まじりで話合っているのを、私と諸口さんが時々ぽつぽつと受答えする程度であった。
 諸口さんは女学校を出たばかりというから十八九であろうか、花模様の単衣《ひとえ》物に、寝たり起きたりするために兵古《へこ》帯を胸高に締めているのが、いかにも生々《ういうい》しく見え、その可愛いい唇は喀血のあとのように、鮮やかに濡れていて眼は大きな黒眼をもち、その上いかにも腺病質らしい長い睫毛《まつげ》を持っていた。いまはようやく病気も停止期にあるというけれど、消耗熱の名残りであろうか、両頬がかすかに紅潮して、透通った肌と美しい対照を見せていた。
 その生々しい姿と、全然対蹠的なのがマダム丘子であった。爛熟し、妖しきまでに完成された女性には、一種異様な圧倒されるような、アクティヴな力のあることを感じた。私はこの二人の女性から、女性の美というものに二種あることを知った。諸口さんの嫋々《じょうじょう》とした、いってみれば古典的|静謐《せいひつ》の美に対して、マダム丘子のそれは烈々としてすべてを焼きつくす情獄の美鬼を思わせるものであった。
 しかし私は、この二つの美に対して、どちらを主とすることも出来なかった、マダム丘子のその福々とした腕……それは真綿のように頸《くび》をしめ、最後の一滴までの生血を啜《すす》るかのような妖婦的美しさの中にも、又極め
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