日の教育は殊に実用的科学を重んじて、先輩初め宗教道徳を蔑視する。今日の教育は、当さに其子弟をして個人的ならしめざるを得ざるが故に、先輩の要求と彼等青年に与ふる教育とは確かに其効果に於て一致しない。教育の結果東の方に奔《はし》らしめて置きながら、西の方に行かないのが悪いと力瘤を入れて説いても、それがどれ丈けの薬になるか、且又社会の制度の立て方によつては、人々をして甘んじて犠牲を払はしめ得る場合と、容易に犠牲を払はしめ得ざる場合とある。此二つの場合の分るゝ最も主要なるものは国民銘々の生活の保障の有無であらう。例へば明治以前の封建時代に於ては、家に定れる封禄あり、自分一身を犠牲に供する事は概して妻子眷族の生活の道を絶つ所以にあらざるのみならず、場合によつては家門の誉、子孫繁栄の基となることもある。固より此考を意識して国家の為めに命を捨てるといふのではない。時代の背景が自ら当時の役者をして、一死を鴻毛の軽きに比せしめ得たのである。斯う云ふ時代には遠大の志望を持ての、国家の為めに奉公しろのと云へば、国民が直ぐ其声に感応して何等之を妨ぐる個人的社会的の煩累を感じない。我国の忠君愛国の念の強かつたのは単に之のみによるのではないけれども、確かに数〔百〕年来封建的太平の時代を経過したといふ事が時勢の一変した今日まで其余徳を流して、我々に犠牲奉公の念を伝へて居るのである。然しながら今日は時代が全く一変して居る。見よ我々に何の生活上の保障があるか。今日の時代は貧富の懸隔を甚しからしめて、中等階級の立脚地を段々に撹乱して居る。大多数の人は一定の家産をすら持つて居ない。妻子眷族の生活は繋つて家長一人の生命にある。それも昔のやうに数十百年来住み馴れた故郷に定住して居るのなら親族故旧の厄介になるといふ見込もあるけれども、北海道のものが九州のものを娶《めと》つて満洲で奉職をして居るといふやうな今日の時代では、親族といふも名ばかりで何等精神的の親みがないから、亭主が死んだからとて、妻君が其子供を引連れて亭主の親族故旧に頼りやうがない。斯う云ふ時代には如何に犠牲奉公の徳を高唱しても、顧みて妻子眷族の窮を思ふ時に、果して其決心が鈍る所なきを得やうか。否な今日の世の中は妻子眷族は扨て置き、自分一人の生活にすら追はれて居るものが多い。斯くて今日の青年が生命も惜しい、金も欲しいと云ふのを、無理と見る事が出来や
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