はぬ花の塵もかぐはし

花はみな昨夜《よべ》の小雨にちりはてて朝晴《あさはれ》しろし宇多の中山

ほろほろと霞ごもりに山鳥の啼く音のどけき花の昼かな

山ふかき埴生《はにふ》の花をたまたまも訪ひし貴人《うまびと》内へと申せ

かなしさも忘るるばかり山寺の庭をきよめてちる桜かな

家ざくら散り過ぎぬれば鶯も臥処《ふしど》荒れぬと思ふらんかも

西に入る春の日かげはわが住める庵より低し宇多の中山

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子をあまた持てれど、皆遠き国にあれば、老の心細さに、折にふれて恨みかこつことも多かり。
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暑き日はわが子を思ひ老いはてて身の寒ければましてしのばゆ

子にまよふ親の耳には山にてもおなじ心の鳥の音ぞする

誰をかは頼まんうからやからにも疎《うと》まるるまで老いにけるかな

親と子のともに住めるも多き世に生きて別れて遠く隔つる

久方の天のはらからむつびあひて親を守《も》るこそうらやましけれ

遠く住む子等にも告げよほととぎす身のさびしさにその父は泣く

子と云へば老いては名だに恋しきを国へだつこそ恨なりけれ

子を持てば子の為にさへ後《のち》かけてわれ悪しき名は立てじとぞ思ふ

子にこころ暗《くら》む折こそわれ故にまどひし親の闇も知らるれ

足撫槌《あしなづち》手撫槌《てなづち》神も名にし負へば子は古《いにしへ》も愛《めぐ》くやありけん

風に散る花を見てすら惜む世に子等にはなれて住める我かな

子はあれど住む国遠し常はあれ病みてくるしむ折には恋し

子と言へばせめて命の際《きは》ばかり膝をも枕《ま》きて死なんとぞ思ふ

過ぎし世の如何なる咎《とが》か報いきて我には疎き子を持《も》たるらん

世を去りてなからん後《のち》に思ひいでよひとりわびつつ親は死にきと

親と子の世にはえにしの薄けれどなき後《あと》にこそ思ひ知るらめ

折ふしは親の上をも語るやと子を思ふごとに泣き咽びつつ

子を思ふ心はさこそ闇ならめ道の隈囘《くまわ》も見えぬ親かな

山かげの雪間にあさる山がらす汝が声ならで音づれもなし

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菜花三首。
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都より西を霞に見わたせば野は黄なるまで菜の花の咲く

家にのみあるもいぶせし春の野に菜の花さけば心ゆるぎぬ

世の中に知られぬ宿も菜の花の香を覓《と》めてこそ蝶の飛ぶらめ

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人人と加茂の御社に詣でて。
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露ながら葵かざせばほととぎす折なつかしく神山に啼く

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蝉二首。
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晴れんとて本間《このま》明《あか》れる夕立に降りつぐ蝉のむら時雨かな

寝おびれて啼く声すずし宿る木のしづくや蝉の夢冷しけん

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菖蒲五首。
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三島江や雨のなごりの露の香を袖にうつして引くあやめかな

秣草《まぐさ》には刈りは刈るとも隠《かく》れ沼《ぬ》のあやめは残せ枕|結《ゆ》ふべく

引く袖ににほふ菖蒲の露のかぜ沢の入日にかわかずもがな

あやめ葺く萱《かや》が檐端《のきは》の夕風にちりこそにほへむら雨の露

屋に葺かん折し来ぬればあやめ草にほふ風さへなつかしきかな

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歌の中山に住みける夏。
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夕日かげかがやく色にまばゆくもわが山躑躅《やまつつじ》花さきにけり

橘のかをれる庭は風ながらはた雨ながら塵ながら見ん

夢さめて清きみ山の蝉きけばかはりたる世のここちこそすれ

夕立は麓すぐれど高嶺よりあらしの払ふ宇多の中山

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折にふれて、み仏のめぐみのかたじけなさに詠める、かずかずの歌。
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ひと枝の花を手向けん香る木を焚きてむくいんみ仏の前に

前《さき》の世に如何なるちぎり結ばれて斯かる光明《ひかり》に遇ふ身なるらん

み仏のめぐみに漏れて生れなば牛ならましを馬ならましを

わくらはに遇ひし御法《みのり》の花の香は聴きしめてこそ身ににほひけれ

知らでこそ仏をよそに思ひしか我も光明《ひかり》の中《うち》に住む身を

犬猫の身にも生れず人の世に御法《みのり》きけとて出《いだ》しましけん

忘れても仏はわれを放たじと聞く身しもこそ涙こぼるれ

昔出でしわがふるさとの都路に急がんためか年の老いゆく

罪おほき身もよき人と一つらに住ます蓮《はちす》のその誓《ちかひ》はも

数ならぬ身もみめぐみを念《おも》ふとき心すなはち仏とぞ聞く

水にすむ影は手にだにとられねど月のやどりは疑もなし

樹にふるる風の音さへ御法《みのり》なるたのしき国に今ぞ到らん

心だに僻《ひが》まずもがなみほとけの子と説く数に洩れぬ身なれば

世に気息《いき》のかよふ限は唱《とな》へまし仏の御名ぞ命なりける

浮き沈むわれを幾世か待ちませし心ながきは阿弥陀釈迦牟尼

耳も目も思ふままならず老いにけり仏の国や近くなるらん

ひんがしに出でては西に月も日もみちびきますを知らで迷ひき

われは世に免《のが》れぬ罪のあればこそ今は仏に生擒《いけど》られけれ

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明治十六年夏、薩摩より京に帰りて、次の年、比叡の麓一乗寺の里に世を避けて。
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世の中のさわぎに代へて山松の声きく身こそうしろやすけれ

翡翠《かはせみ》も世をや厭ひしのがれきてわが山の井に処定めつ

身の憂さを思ひ放てば放ち鳥|籠《かご》をのがれし世こそ広けれ

比叡の山雲のやどりの松が根に痩せたる老のかばね曝《さら》さん

落葉にもうき世の塵のまじらねば煙も清き松の下庵

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おなじ里に住みける秋。
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あかなくに傾く月の人ならば今しばしとも引きとめてまし

わびしらに啼くや雨夜のきりぎりす薄明《うすあか》りなる月や恋しき

惜む間にいつしか西にかたぶきぬ月吹きかへせ秋の山風

夏蔭とたのみし桐のちりそめて野分おどろく朝ぼらけかな

秋ごとに老せぬ月は見しものを頭《かしら》の霜といつなりにけん

避けたれどここもうき世か枕よりあとより虫の声せめて啼く

秋ふけてやや肌寒してる月の影よりむすぶ夜半の初霜

月に世を思ひかへても遁れきてみ山の秋に夜を更かすかな

恋せぬはすべなきものかあたら夜の月を簀子《すのこ》にささせつるはや

ふふめりし葛花《くずばな》さきぬ秋風をかへる裏葉《うらば》に見るぞ涼しき

野の末にうき世は遠く避けたれど月ばかりこそ疎まざりけれ

かすかなる窓の戸あけてわが影とふたりして見る山の端の月

つたなきを世にこそ蔽へ心までてらす月にはいかが隠さん

蓮は実《み》をむすぶも清きやり水に月ひとり澄む山寺の庭

音づれてさびしきものは枯蓮《かれはす》のうら葉たたきて行く時雨かな

山霧に月はくもりて蓮の実のちるおとさむし山寺の庭

世には似ずにほひめでたしわが山は紅葉も人に媚びぬなるらん

山寺の棚橋くぐるやり水も見えぬばかりに紅葉こぼるる

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旅中。
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ひとり行く影さへ細き夕づく日きゆる末より降る時雨かな

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落葉。
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蜘蛛《ささがに》の糸にかかりて黄ばみけり秋の形見の楢《なら》の一つ葉

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蝶。
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うかれきて花の木の間にぬる蝶は誰が山踏《やまぶみ》の夢路なるらん

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高野川のほとりに住みける頃。
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春の夜は隙間《すきま》がちなる宿もよし閨もる風に梅が香ぞする

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見たるままを。
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岡の辺や土とる穴の片くづれさかさまに咲くしら梅の花

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山吹。
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たふれたる野末の庵も旅人のかいま見てゆく山吹の花

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鶯三首。
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夢路かと猶たどられぬあけぼのの花のねぐらの鶯のこゑ

春雨のにほふしづくに羽ぬれて花の※[#「木+越」、第3水準1−86−11]《こむら》に鶯の鳴く

袖に染《し》むものならませば鶯のこゑや都の苞《つと》にしてまし

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生れける丹後国の与謝にまかりて。
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和野《わの》の鼻まはれば見ゆる橋立の松原づたひ鶯の鳴く

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燕。
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うつばりに黄なる嘴《はし》五つ鳴く雛に痩せて出で入る親燕《おやつばめ》あはれ

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春の歌の中に。
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野を寒み枯れたる梅を折り焚きて老いし畑守昼を待つらん

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西山別院に幡山教圓を訪ひて宿れる時。
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木葉ちる桂の寺に宿とればわれもと帰る夕がらすかな

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耳とほくなりし頃。
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きこえねば楽しげもなし老いぬれば鶯にすら耳|疎《うと》くなる

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雪三首。
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朝晴れし雪のけしきは長閑にて松の日影にしづくこぼるる

朝日さす枝はしづくになりにけり積れどあたら松の上の雪

朝ぼらけみ山おろしの吹くすゑに一むら曇る松の雪かな

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冬月。
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さ夜千鳥なく声さゆる加茂川の白洲《しらす》の霜は月にぞありける

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一乗寺の里に住みける冬。
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焚かん木は風に折らせて山かげの冬ごもりこそ事なかりけれ

しぐれてはわが山の井ぞ濁りけるやがて夕食《ゆふけ》に汲まんと思ふを

山窓の夕日は消えて比叡おろし風先《かざさき》しろくふる時雨かな

こもりたる楢の葉柏《はがしは》ちりはてて時雨のみこそ猶たたきけれ

釜処《かまど》には煙たてかねわびぬれば火桶一つに過《すぐ》す冬かも

月かげはかつ晴れたれど大空の風に残りて降る時雨かな

冬ふけし稲城の竹も笛吹きて鳴る音《おと》さむし夜あらしの風

おきわたす霜と有明の月かげとかたみに白きわが庵の前

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折にふれて、父母を懐ひて詠める。
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聞きおきし親の諌めと花の香は老いて身にこそしみまさりけれ

貧しきも老の憂目《うきめ》もふた親にわがつらかりし報《むくい》なるらん

いくたびも惑ひを悔いてわび申すわが罪ゆるせ冥路《よみ》の父母

父母の世にあるほどにかもかくも今おもふごと思はましかば

子のこころ親のをしへになびかぬは己が背きし報《むくい》なるらん

おなじ世に二たび遇はぬ父母に何しか我は疎《うと》くつかへし

いつはとは月日もわかず手向せんおほしたてたる父母のため

身に添ひて父はいませりはぐくみて母いませりと思ひ事《つか》へん

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失題。
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あはれなり角ある牛も若草の妻恋《つまごひ
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