寺に到る間に於て、寺院及び民家より軍資を献納したるもの参万金に達せり。越中高岡に到りて敵勢のために前途を阻止せられ進みがたければ、勅使の一行は江戸に向ひて出発し、父の一行は太政官へ復命のため四月十九日帰京の途に就く。京に帰れば播州姫路藩より西本願寺の連枝本徳寺を経て依嘱する所あり、即ち西郷大久保の両参与に議り、かの藩のために佐幕の嫌疑を救解せり。同年六月、岩倉卿の邸に到り建言して云ふ。北越地方の敵勢今猶熾んなるは、太政官より発布せられたる神仏判然の趣旨を農民等に於て誤解し、神道を揚げて排仏毀釈の挙に出づるとなせるもの、その一因なり。この誤解を融和して農民の後援を断たば叛徒の保ちがたきこと想ふべし。農民の誤解を融和するは、真宗の信者多き地方なれば、西本願寺に勅書を賜り、門末の僧侶をして御趣旨を諭示せしむるを上策とすと。即ち数日を出でずして西本願寺に勅書を賜りしかば、再び父は西本願寺使僧として勅書を奉じ、七月中旬京都を出発し、北越の各地に於て神官僧侶を集め、神仏判然の御趣旨、王政維新の宏謨、民心の一統に就いて演説す。長岡城の潰滅するに及び民政局を越後三条に置かれければ、父はまたその局に出仕を命ぜられ、西本願寺の諭達と共に窮民を賑はすことに力を尽し、翌明治二年十一月に至りて帰京復命す。翌年二月、伊地知正治氏東京より書を送り、北陸道某県、東山道某県、両地何れかの大参事に推挙すべき由を言ふ。父は、天下の大変に際し尊王報仏の心止みがたくして聊か国事に微力を致したるのみ、桑門の身固より仕官に意なしと言ひて之を辞せり。此に於て父の思ひけるは、王政維新の実を挙ぐるは一面に人智を開発し、一面に産業を興すに在り。また民心を和げ、安んじて業に就かしめんとするには、窮民に新業を授け、はた医薬を裕かにして疾病の憂なからしむるに在りと。即ち奈良朝に於て種芸、種智、悲田、施療の諸院を開きたる例に則り、諸種の新しき施設を先づわが京都府より試みんとし、府の大参事植村正直氏を初め、友人金閣寺住職伊藤貫宗、銀閣寺住職佐佐間雲巖諸氏に議りて、その協賛を得つ。由つて父は先づ市内各区及び各郡を巡囘して小学校の必要を演述し、著著その創設を見るに到りしかば、はては滋賀県大参事松田氏の招請に応じ、その県下をも遊説し、大津小学校を初め二三の小学校を開始するに到れり。之より先き人智を開発するは古道にのみ由るべからず、宜し
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