行れて、西本願寺の法嗣光威上人みづから法衣の上に帯刀せる僧兵を率ゐ、正信偈を唱へつつ皇居の四方を練りありきぬ。世の人之を帰命無量寿隊と言へりき。二に曰く。方今の形勢にて最も急要なるものは軍資なり。目前の欠乏を救ふ一策としては、町民にして皇居の諸門を衛る法内と謂ふ者四家あり。その四家に命じて、町家の富裕なる者、就中呉服商などより御用金の貸上げを謀らしむる事。三に曰く。京都に御朱印寺と称するもの百余箇寺あり。彼等に献金を命じ給ふも又一策なりと。是等もまた直ちに参与所の納るる所となりしかば、翌五日父は先づ西本願寺に赴きて寺臣島田左兵衞、松井中務の二人と謀り、立所に五千金を献ぜしめ、更に西本願寺の信徒譽田屋、柏屋その他を勧誘して三日を出でずして更に参万金を納めしめき。猶かの法内より町家に勧誘し、朝廷より御朱印寺にも命ぜられしかば、白木の箱に献金の札を立て競うて参与所に集るもの、同月十五六日頃に亘り陸続として絶えざりき。父はまた年頃、西本願寺をして王事に力を致さしむることを計るは、仏恩に報ずる所以なるを思ひ、然かするには先づ豐臣氏以来杆格を来せる薩藩と和し、又長州藩と往来し、両藩を輔けて朝廷に報効せしむるに如くなしと思ひければ、前の年既に両藩と西本願寺との間に周旋して和親を結びたりき。又しばしば法主光澤上人に謁して天下の形勢を説き、一意王事に尽し給ふことの緊要なるを述べたれば、東本願寺の佐幕に傾きたるに反し、西本願寺は終始順逆をあやまつこと無かりき。さてまた父が其後の建言を納れて、一月十九日参与所より、北陸道鎮撫の勅使高倉三位、四條大輔二卿の随従として使僧七人を出だすべき由を西本願寺に命ぜらる。即ち父は六人の使僧を選び、参与所及び法主の特命によりそれに主となりて同二十三日京都を出立す。若狭国小浜に至れば勅使より命あり。北陸道諸藩の情勢未だ一定せず、民心もまた恟恟たり。加ふるに北越の反勢日を追ひて猖獗ならんとす。北陸道は西本願寺の信徒多き土地なれば、使僧等は常に先発して社寺奉行及び各宗の寺院を集め、王政維新の御趣旨、幕府の罪状等を演達し太政官の大号令を諭示して、更に之を諸民に伝へしむべし。また行先ごとに国情を探りて報告し、兼ねて軍資の献納を勧誘すべしと。即ち各地に於て日夜前条の御趣旨を演説し、また諸藩の重臣と会して朝旨を誤解せざると共に王事に奮励すべきことを勧めしが、加賀国大聖
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