物の無きをわが世と知りしより心も安し事も足らひぬ

尊しなひと日三たびの食物《をしもの》を命のためと誰《た》がめぐむらん

来ん世はあれかりのうき身もたふとしな鳥獣《とりけもの》にも生れざりしは

来ん世をば何か歎かん心よりおくにたのしき道はありけり

斧の柄の朽ちし昔を思ふにも世や長かりし山に住む身は

世をわたるたつきも知らぬ身にしあれど心一つは楽しくぞ思ふ

天地は物こそ言はね四つの時いやつぎつぎに事は足らひぬ

つくづくと思へば安きわが世かな成らぬを捨てて成るに任《まか》せば

世に洩れてすぐすは安し痩畑《やせばた》に人の捨てたる老茄子われ

歎かじな定めなきこそ世の中の変りてめぐる姿なりけれ

身を悔いば限もあらじおむかしく思ひくらせば楽しくありけり

さびしさを心としめし柴の戸を敲くと思へば山の松かぜ

うつらうつら月日ゆくこそ楽しけれ世に滞《とどこほ》る心は無しに

やがて尽きんわが世うれしな父母の跡慕ふべき日も近づきぬ

七十路を四つ越えしこそ嬉しけれ猶生きば生き今死なば死ね

われ老いぬ年は七十ぢ四つ越えぬ今は世になき身ぞと思はん

消えはてて跡なき身こそうれしけれ浮世の夢は涯《はて》し無ければ

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都。
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そなはりし都の人の姿見よところからこそ身はたふとけれ

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耳うとくなりて。
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わが耳のちかからませば世の中の事を聞くにも物思はまし

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梅雨。
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降りつづく皐月の雨の川社《かはやしろ》こころましませ流れもぞする

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近江国に遊びける夏。
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風そよぐ堅田の舟の磯めぐり浪もしづけし夕月もよし

鳰《にほ》の浮く蘆間の水を漕ぎわたり涼しくもあるか真野の釣舟

涼しきは真帆にうけたる比良おろし吹かれてゐざる鳰《にほ》の釣舟

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鷺二首。
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入日さす鳥羽の松原しら雪のふると見るまで鷺の来て寝《ぬ》る

川の洲に鷺のむれ白くゆふだちの濁りにあさる夏の夕暮

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一乗寺の里に住みける夏。
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焼けしうへ一雨《ひとあめ》そそぐゆふだちのしめり涼しく土の香の立つ

ゆふだちに濡れし鴉の羽たたきに桐の花ちる夕あかりかな

枕つく妻屋《つまや》もささで夏の月入るまでを見ん夜の涼しさに

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明治二十六年の夏、子等の集ひきて、祖先を初め、無縁となれる身《み》内《うち》の亡き魂をまつりて供養しけるうれしさに。
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ありし世をしのぶにゆかし亡き人の魂の行方と蓮葉《はちすば》を見て

はらからか親か啼く音の身にしみて袂ぞしめる山ほととぎす

父母のむかししのびて盆《ぼに》すれば袖こそしめれ花を折るにも

親のため盆《ぼに》する宵の松虫はわが待つ魂の声かとぞ聞く

亡きかずにいつか入らんと父母の魂まつるにも我世をぞ思ふ

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夏田家。
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しらしらと咲きめぐりたる夕貌の花の垣内《かきつ》に馬洗ふこゑ

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某の別墅にて。
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まがり木に檐をもたせて造れども夏は涼しき草葺の屋根

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山階宮の御歌会に侍りて、夏海といふことを。
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紀の海や夏の追風《おひて》に由良の埼漕ぎごころよき朝びらきかな

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子規。
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滝なして水沫《みなわ》さかまく宇治川に鮎釣りがてら聞くほととぎす

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明治二十七年七月十二日、人人と一日百首催しけるに、いみじく暑さ日なりければ。
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暑さには己が家すら草まくら旅ごこちして置きどころ無し

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宇治に遊びて。
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菟道川《うぢがは》や蛍を見ると板橋の桁《けた》にもたれて更けぬこの夜は

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蜩四首。
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夏深き鳴滝山のひぐらしは水の音よりすずしかりけり

秋風に肌《はだへ》す
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