ふ故《せゐ》もあつたが、和上は学者で貧乏を苦にせぬ豪邁《がうまい》な性質《たち》、奥方は町家の秘蔵娘《ひざうむすめ》で暇《ひま》が有つたら三味線を出して快活《はれやか》に大津絵《おほつゑ》でも弾かう、小児《こども》を着飾《きかざ》らせて一人々々《ひとり/\》乳母を附けて芝居を見せようと云ふ豪奢《がうしや》な性質《たち》、和上が何かに附けて奥方の町人|気質《かたぎ》を賎むのを親思《おやおも》ひの奥方は、じつと[#「じつと」に傍点]辛抱して実家《さと》へ帰らうともせず、気作《きさく》な心から軽口《かるくち》などを云つて紛《まぎ》らして居る内に、三人目の男の児を生んだ。
 此度《このたび》の難産の後《あと》、奥方は身体《からだ》がげつそり弱《よわ》つて、耳も少し遠く成り、気性までが一変して陰気に成つた。和上の傷《きづ》は二月《ふたつき》で癒えたが、其の傷痕《きづあと》を一目見て鎌首《かまくび》を上げた蛇《へび》の様だと身を慄《ふる》はせたのは、青褪《あをざ》めた顔色《かほいろ》の奥方ばかりでは無かつた。其頃|在所《ざいしよ》の子守唄《こもりうた》に斯う云ふのが流行《はや》つた。
[#ここから2字下げ]
『坊主《ばうず》の額《ひたひ》に蛇《へび》が居《ゐ》る。
    蛇《へび》から飛《と》び出《で》た赤児《あかご》の眼《め》。』
[#ここで字下げ終わり]
『赤児《あかご》の眼《め》』は重瞳《ぢゆうどう》の三男を指《さ》したのである。奥方は何と云ふ罪障《つみ》の深い自分だらうと考へ出した。本堂の阿弥陀様|計《ばか》りでは此の不思議な怖《おそ》ろしい宿業《しゆくごふ》が除かれぬやうな気がするので、門徒宗でやかましい雑行雑修《ざふぎやうざつしゆ》の禁制《きんせい》を破つて、暇《ひま》があれば洛中洛外の神社仏寺へ三男を抱《だ》いて参詣した。以前は気質《きしつ》の相違であつたが、今は信仰《しんかう》までが斯う違《ちが》つたので、和上は益々奥方が面白く無い。伏見の戦争が初まる三月《みつき》程前から再び薩州|邸《やしき》に行つた切《き》り明治五年まで足掛《あしかけ》六年の間一度も帰つて来なかつた。伏見戦争の後《あと》で直ぐ、朝命《てうめい》を蒙つて征討将軍の宮《みや》に随従《ずゐしう》し北陸道の鎮撫に出掛けたと云ふ手紙や、一時|還俗《げんぞく》して岩手県の参事《さんじ》を拝命したと云ふ報知《しらせ》は、其の時々《とき/″\》に来たが、少《すこ》しの仕送《しおく》りも無いので、奥方は嫁入《よめいり》の時に持つて来た衣服《きもの》や髪飾《かみかざ》りを売食《うりぐひ》して日を送つた。実家《さと》の方は其頃|両親《ふたおや》は亡くなり、番頭を妹に娶《めあ》はせた養子が、浄瑠璃に凝《こ》つた揚句《あげく》店《みせ》を売払つて大坂へ遂転したので、断絶同様《だんぜつどうやう》に成つて居る。在所の者は誰も相手にせぬし、便《たよ》る方《かた》も無いので、少しでも口を減《へ》す為に然《さ》る尼《あま》の勧《すヽ》めに従つて、長男と二男を大原《おほはら》の真言寺《しんごんでら》へ小僧《こぞう》に遣《や》つた。奥方の心では二人の子を持戒堅固《ぢかいけんご》の清僧《せいそう》に仕上げたならば、大昔《おほむかし》の願泉寺時代の祟《たヽ》りが除かれやう、沼《ぬま》の主《ぬし》も鎮《しづ》まるであらうと思つたので、開基《かいき》と同じ宗旨《しうし》の真言寺《しんごんでら》と聞いて、可愛《かあい》い二人の子を犠牲《いけにへ》にする気で泣き乍ら手放《てばな》した。
 明治五年の夏、和上は官界を辞してぶらりと帰つて来た。フロツクコオトを着て山高|帽《ぼう》を被《かぶ》つた姿は固陋《ころう》な在所の人を驚かした。再び法衣を着たことは着たが、永《なが》の留守中|荒《あ》れ放題《はうだい》に荒れた我寺《わがてら》の状《さま》は気にも掛けず格別修繕しようともせぬ。毎日洋服を着て書類を入れた風呂敷|包《づつみ》を小脇《こわき》に挾《はさ》んで、洋杖《すてつき》を突《つ》いて、京都府下の富豪や寺院をてくてくと歴訪《れきはう》する。其れは隣村《となりむら》の鹿《しゝ》ケ谷《たに》に盲唖院《まうあゐん》と云ふものを建てる趣意書を配つて応分の寄附金を勧誘《くわんいう》する為《ため》であつた。
 其の翌年に貢《みつぐ》さんが生れた。

       (二)

 今日《けふ》は日曜なので阿母《おつか》さんが貢さんを起《おこ》さずに静《そつ》と寝かして置いた。で、貢さんの目覚《めざ》めたのは朝の九時頃であつた。十歳に成る貢さんは独《ひとり》で衣服《きもの》を着替へて台所へ出て来た。
『阿母《おつか》さんお早う。』
阿母さんはもう[#「もう」に傍点]座敷の拭掃除《ふきそうぢ》も台所の整理事《しまひごと》も済
前へ 次へ
全9ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング