る。
そして又何時ものやうに、
愛着的な、優雅な、
細心な、
そして凛々《りり》しい表情と態度とが
おゝ我が友よ、僕をして
ナルシスの愛と美を想はせる。
三方を塞《ふさ》いだ、
天井の高い、
そして広々《ひろ/″\》とした画室《アトリエ》は
大岩窟の観がある。
そして大きな画架、
青い天鷺絨張りのモデル台、
卓《たく》、置暖炉《おきストオブ》、花瓶《はながめ》、
肱掛椅子《フオオトイユ》、いろ/\の椅子、
紙片、画布《トワル》、其等の物が雑然と人り乱れ、
麝香撫子と、絵具と、
酒と、テレピン油《ゆ》とが
匂ひの楽《がく》を奏《ジユエ》する中《なか》に、
壁から、隅々《すみ/″\》から、
友の描《か》いた
衣《きぬ》を脱がうとする女、
川に浴する女
仰臥の女、匍ふ女、
赤い髪の女、
太い腕《かひな》の女、
手紙を書く女、
編物をする女、
そして画架に書きさした赤い肌衣《コルサアジユ》の女、
其等の裸体、半裸体の女等と、
マントンの海岸、
ブルタアニユの「愛の森、」
ゲルンゼエ島の牧場、村道、岩の群《むれ》、
グレエの森、石橋、
其等の風景と、
赤い菊、赤い芍薬、
アネモネの花、薔薇、
林檎と蜜柑、
梨、
其等の静物とが
見とれる如く、あまえる如く、
誘《さそ》る如く、
熱い吐息《といき》を彼れに投げ掛ける如く、
彼れの一挙一動に目を放さぬ如く、
我が美くしいナルシスの画家を取巻いて居る。
そして一方《いつぽう》の
南向《みなみむき》の窓の硝子越しに、
四月の巴里が水色に霞んで、
低く、低く、海のやうに望まれる。
正面に近く脂色《やにいろ》をしたのがオペラだ、
左に遠く、ちいさく、日を受けて
うすもも色をしたのがノオトル・ダムだ。
僕はモンマルトルの中腹の、
六階の画室《アトリエ》に居ることを忘れて、
ふと巴里の空《そら》の上を飛んで居る気がした。
友は壁のあなたの厨《くりや》から
珈琲《カツフエ》を煮て持つて来た。
そして稿本《マヌスクリイ》を手にしながら
「聞いてくれたまへ」と会釈《ゑしやく》して、
日本文に新しく訳した「エディプ王」を読み上げた。
水晶質の明るい声が
老優ムネ・シュリイの調子で昂《たか》まり、震《ふる》へる。
底本:「科学と文芸」交響社
1915(大正4)年10月号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針
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