て下されば、あの方は何《ど》うにか成るのですが。』
『寄越《よこ》さ無いかい。』
『雑誌が無くなつた所為《せい》でせうが、今年に成つて三月《みつき》の間に僅か十円ばかし。』
『寄越《よこ》さ無いのが当前《あたりまへ》だ。』
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保雄は昔から、自分の様な者が詩を添削して遣るのに仮令《たとへ》五十銭にしろ謝礼として会費を学生に出さすと云ふ事を心苦しく思つて居る。其れで会費を納めぬ会員の方が多数であるけれども催促がましい事を為《し》無い。而《そう》して会費を納める人も納めぬ人も分け隔て無く其|作物《さくぶつ》を批判し添削して遣つて居る。其方が保雄の心は安らかなのである。保雄は一面詩人を以て任ずると共に一面に後進の詩人の教育者を以て任じて居る丈あつて、彼の率ゐる梅花会《ばいくわくわい》の会員から有望な青年文学者を出して居る事も少く無い。保雄には幾分でも自分の感化を受けて然《さ》う云ふ青年文学者の出るのが唯《たゞ》一|図《づ》に嬉しいので、永年《ながねん》の苦労も、分《ぶん》に過ぎた負債も、世間の自分に対する悪評も然程《さほど》苦には成ら無かつた。斯う云ふ保雄の美点は二三の先輩と妻の美奈子と五六の門下生との外に知る者が無い。門下の中にも少し目鼻が附き掛けると、利巧な連中は文界の継児《まゝこ》である保雄と交《まじは》る事が将来の進路に不利だと見て取つて其《それ》と無く遠《とほざ》かる者も少く無かつたが、保雄は却《かへ》つて其の連中の独立し得るに至つた事を喜んで別段|憤《いきどほ》る色も見せ無かつた。

    (参)

 『阿父《おとう》さん、斯う云ふ人が来ました。』
と云つて長男の勇雄《いさを》が持つて来た名刺を見ると、東京区裁判所執達吏鈴木達彌と印刷してある。保雄と美奈子とは黙つて顔を見合せた。と案内も待たずにどんどんと二階へ上つて来たのは、鼠色の褪《さ》めて皺の寄つた背広を着た執達吏と、今一人は黒の綿入《めんいり》のメルトンの二重|廻《まはし》を来た山田と云ふ高利貸であつた。
『先生、お久振《ひさしぶり》で。』
と云つて笑顔もせずに二重|廻《まはし》の儘で山田は座《すわ》つた。保雄は山田の態度が癪《しやく》に障《さは》つたので、
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『まあ其の上のを取ら無いか、其れぢや挨拶が出来無い。』
『まだ寒いですからなあ。』
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と言ひ乍ら山田は渋々《しぶ/″\》二重|廻《まはし》を脱いだ。下にはまがひ[#「まがひ」に傍点]の大島|絣《がすり》の羽織と綿入《わたいれ》とを揃へて着て居る。美奈子は挨拶もせずに下へ下《お》りて行つた。執達吏は折革包《をりかばん》から書類と矢立《やたて》とを出した。
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『君は五年も遣つて来無かつたね。』
『はい、大分長く遠慮して居ましたが、先生は太相《たいさう》御《ご》運が直つたと聞いたから頂戴せずに居ては冥加《みやうが》が悪いと思つて。』
『僕は相変らずだ、運が直る所《どころ》か、益々惨憺たるものだ。』
『いや、然《さ》うで無いて、余程《よつぽど》貯蓄《たま》つたちふぢや有りませんか。』
『何処《どこ》にそんな評判があるのだい。』
『博覧会を当込《あてこみ》に大分土地を買収なさつたつて。』
『とんでも無い事だ。併《しか》し僕には珍らしい縁喜《えんぎ》の善《よ》い噂だ。然《さ》う云ふ身分に成れば結構だが。』
『先生は隠しても日本中で知つてまさあ。[#「。」は底本では脱落]新聞にも出てましたぜ。』
『ふふん、それは素敵だ。』
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執達吏は書類を保雄の前に出して、
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『何《いづ》れ御《ご》示談に成りませうが、私の職務ですから成規《せいき》の通《とほり》に執行致しませう。』
『御《ご》苦労様です。差押へて呉れ給へ。何も有りや為《し》無いよ。』
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執達吏は先《ま》づ床の間の古書類を目録に記入した。
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『古事記伝、大部なものですな。春あけぼの抄、万葉考、えいと、元享釈書。』
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執達吏の読上げて居る書籍は此春《このはる》郷里の兄から頒《わ》けて呉れた亡父の遺物である。保雄は父の遺骸を鬼に喰はれて居る様な気が為《し》た。額、座蒲団、花瓶《はなかめ》、書棚、火鉢、机と一順二階の品《しな》を押《おさ》へ終ると、執達吏と債権者は下へ降りた。保雄も尾《つ》いて降りたが、美奈子は末の娘の児《こ》を抱いて火鉢の前に目を泣き脹《はら》して座つて居た。[#「。」は底本では脱落]
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『己《おれ》が銭を蓄《た》めて土地を買
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