の実力の定《さだま》つた連中が大分にある。今|己《おれ》の雑誌が無く成つても此の八九年間に蒔いた種はいつか芽を吹くだらう。』
[#ここで字下げ終わり]
斯《か》う相談を決めて其年の十一月に保雄は満百号の記念号限り雑誌を廃《や》めて仕舞《しま》つた。新聞雑誌の文芸記者の中には稀に保雄が永年の苦闘に同情して雑誌の廃刊を惜《をし》んだ記事を掲げた人もあつたが、大抵は冷笑的口調で、保雄の雑誌は五年|前《ぜん》に既に生命を亡《うしな》つて居たのだ、今日《こんにち》の廃刊は遅過《おそすぎ》るなどゝ書いた。
(弐)[#「(弐)」は底本では、「(一)(つゞき)」]
此春《このはる》に成つて保雄の一家は市外から麹町区へ引移《ひきうつゝ》て来た。其《それ》は長男が学齢に達したので市内の小学校に入れる為と、美奈子が五人目の子を妊娠して居るので婦人科の医師や産婆の便利の善《よ》い市街《まち》に住まうと云ふのと、保雄夫婦の心では九年間の郊外生活に厭《あ》いたので、市内に住んで家が新しく成つたら心持も新しく成つて異《かは》つた創作も出来やうと思ふのと、是《これ》等の理由から六円五十銭の家賃の家を捨てゝ二十三円の高い家賃の家へ思《おもひ》切つて引移《ひきうつ》つた。去年の末に幸ひ美奈子の長篇小説が某《なにがし》新聞社へ買取られたので、其の稿料で大崎村の諸|払《はらひ》の滞《とゞこほ》りやら麹町の新居の敷金やら引越料やらを辛《やつ》と済《すま》す事が出来た。
新しい家は二階|造《づくり》で引《ひき》越した当分の気持が実に佳《い》い。此の二階の明るい書斎でならば保雄が計画して居る長篇小説も古事記を材料にした戯曲も何《ど》うやら手が附けられ相《さう》に思はれた。引《ひき》越して五六日間は板を買つて来て棚を彼処此処《あちらこちら》に附けるのも面白いし、妻が瓦斯《ぐわす》で煮沸《にたき》をするのを子供等と一緒に成つて珍らし相《さう》に眺めたり、又|招魂社《せうこんしや》の境内へ子供等を伴《つ》れて行《い》つたりするのも気が伸々《のび/\》する様であつた。[#「。」は底本では脱落]七八日目に、
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
『貴方《あなた》、此の月末《げつまつ》から何《ど》うしませう。田舎と違つて大分街では生活《くらし》が掛り相《さう》ですわ。』
[#ここで字下げ終わり]
と美奈子が良人《をつと》の広い机の端に、妊婦の常《つね》として二階の上下《あがりおり》に目暈《めまひ》がする其《その》額を俯伏《うつぶ》して言つた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
『然《さ》うだらう、家賃ばかりでも従来《これまで》の四倍から費《かゝ》るのだからな。』
『もう、お小遣も無く成つたので御座います。』
『愈々《いよ/\》初めの決心通り背水の陣だね。』
『従来《これまで》も片時呑気な間《ま》も無かつたのですけれど、まだ大崎でなら永い間土地の人に馴染《なじみ》が有りましたから大抵の買物は借りて置けましたが此処《こゝ》は何から何迄現金ですもの。』
『心配しなさんな。明日《あした》から己《おれ》が書き出す。此処《こゝ》へ来てから大分に気分も佳《い》いのだから。月末《げつまつ》には何《ど》うにか成るさ。』
『貴方《あなた》に然《さ》う苦労をおさせ申し度く無い。[#「。」は底本では脱落]私がもつと働けるなら働きたいのですけれど、何分此の身体《からだ》ですもの、来月産を済《すま》して仕舞《しま》はねば本屋廻りも出来ませんし、其《それ》に目暈《めまひ》がね、筆を持つと大変にしますの。』
『お前に此上《このうへ》心配や労働をさせて成るものか、其れは己《おれ》から云ふ事だ。己《おれ》は此の八九年間雑誌の為にすつかり囚《とら》へられて居たが、雑誌が無く成つて見りや暇が出来たのだから、是《これ》からは来客を断つても書く積《つもり》だ。此処《こゝ》へ来てからの生活向《くらしむき》は己《おれ》の責任にして置いて呉れ。』
[#ここで字下げ終わり]
良人《をつと》は斯う確乎《きつぱり》と云ふけれど、世間の人々は良人《をつと》を誤解して何の縁故も無い人迄が毛嫌ひして居る。良人《をつと》の書くと云ふ小説の原稿を何処《どこ》の雑誌社で買つて呉れると云ふ当《あて》は全く無い。其れを知らぬ程の良人《をつと》では無いが、持前《もちまへ》の負嫌《まけぎら》ひな気象と妻を労《いたは》る心とから斯う確乎《きつぱり》した事を云ふのであると美奈子は思つて居る。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
『貴方《あなた》は未《ま》だ雑誌の方の払ひも残つてますから、あの方の御《ご》心配もお有り成さるのね。』
『うむ、急に遣らなくても可《い》いさ。月賦にでもすれば。』
『会員の方が会費を寄越《よこ》し
前へ
次へ
全5ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング