奴等のために献身的になる必要はないよ。あんたがここで頑張っても、はたして十人の労働者を幸福にする事が出来るかね。いや出来まい。せいぜい一人の豚に軽蔑されるのが関の山だね。あんたのようなお嬢さんは、やはり美しく着飾ってドラマを見にいくに相当している。私もその方に賛成だよ。どうだね。」
「辞令はお手許にありまして?」
槇子は、椅子から立ち上っていた。
「ジ、ジレイ? ああ辞令かね。いや、急《せ》かんでもいいよ。私の話を聴きなさい。まァ考えてもみるがいい。あんた達の望んでる社会がはたして来ると思ってるのかね?」
「必然的に……月蝕が一定の時期に出現するようにね。」
「ほう、じゃな、その社会が月蝕と同じようにくるもンなら、一切のあんた達の努力、活動は無駄じゃないかね。何のために労働者の組織をする必要があるだろう。自然的にやってくる月蝕を待つのに、総ての運動は不用だと思わんかい。これァ多分、そんな社会はやってこないということを証拠立ててやしまいかね。ハハハハ……主義者などというものは……」
「まァ、襞のない扁平な頭脳ってあるもンですわね、医学の好研究資料になるわ。月蝕って人間の意志で左右されるかしら? ホホホ……小学校三年生の常識をもってこなくちゃね、私の云ったのは必然性に就てですわ。この社会のあらゆる現象は人間の意志を通して起りますわ。私達のその社会の不可避的な出現も、人間の意志がその方向に働くからです。その方面へ努力するからよ。だから組織も勿論必要なんですわ。その必然の結果[#「必然の結果」に「×」の傍記]ですもの。私達はそれへ努力するんです。貴方達はその眼で労働者を侮辱なさる。そうですとも、その人達は汚くて、無愛想かもしれない。けれど、それはあの人達の故じゃないわ。制度の、この資本主義社会のお蔭なんです。私達は十人の労働者を幸福にするのが目的じゃない、千の万の、この世の中の被圧迫者達の正当な生活を営むその社会の出現を目的としているんです。」
部屋の空気の睡さに反抗して、槇子は遂い喋べった。
喋べった後で苦っぽく笑って、テーブルの上の辞令を自分の方へ引き寄せた。
「……いや、その、やはりあんたは勉強してるだけあって、どうして仲々しっかりしたことを云われる。私も同感出来る節もある。私の云わんとしたことはですな、何ですよ、あんた達のようなお嬢さんの危険な運動は一種の流行病じゃないかと思う、その点ですよ。どうですね。あんたもその患者の一人ということにしておいたら……」
「そうですわね、貴方の奥様が流行衣装に懸命になると同じような……」
「ハハハハ、ともかく私はあんたの身を案ずればこそ苦言も述べるので……」
「御親切様にいろいろと有りがとう存じます。いずれ暇をつくって拝聴に参りますからその節また……。私は、これから庶務で今自分の給料を頂かねばなりませんし、それに積立金もカードで計算しなければなりませんから、これで失礼します。」
槇子は軽く頭を下げて足を廻転させた。
「おい! 前川さん、あんたは何て性急《せっかち》なんだ。私はまだ話を終っていないよ……」
「あら、まだお話がありますの、私についての御注意でしたらもう十二分に……」
「いや、私はもう何も云わんよ。お掛けなさい。もう十分ばかりいいでしょう。これ迄も折角私はあんたへ特別の目をかけてきとる。今更あんたのようなしっかりした人を他へやる気も起らんよ。どうだね、御希望なら、私がもう一度極力奔走してみてもいいが。それとも他にあんたの望みでもあるなら、その方へ世話してあげよう、新聞社なんかあんたの適任じゃないかな。」
張り子の虎みたいに首を伸ばして、部長はその眼の光りに露骨な色を加えた。
「御好意だけは……」
「どうだね、あんたはどっちがいいの、銀行《うち》にいるならいるでその方法を講じ度いと思うしね、他なら他で丁度婦人記者を探してるところがあるから、何ァに給料のことは心配せんでも、その点は私が保証してさしあげますよ。だがこのことは私の肚《はら》一つの裁断だからその点お含みをな。」
「まァ部長さん、貴方は仲々どうして、老練なドン・ジュアンですわ。私に附いてる真赤なトレードマークがお気に召すなんて、余程の悪食家ですわね。ホホホ……同じプレミアム附でも、私のは爆裂弾かもしれませんわ。それに、生憎、私、貴方の別荘の所在地が気に入りませんしね。お気の毒ですけど、じゃァ左様なら。」
胸を張って、昂然と、槇子は部屋を出て行った。
* * *
「どうして? ばかに遅かったわね。」
昼食時刻を、祥子は槇子を待ちあぐんでいた。
「とうとうこれ[#「これ」に傍点]なの。」
クルクル指で弄《もてあそ》んでいた紙で、槇子は威勢よく首筋を切った。
「原因は?」
彼女の手から紙を※
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