[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》り取って、それへ眼を馳せ乍ら、祥子は青白んだ皮膚をビリビリ慄わせた。
「Sの研究会で犬に嗅がれたのが直接の原因らしいわ。あの時、煙に巻けァよかったんだけどね。失敗したわ。それから、あの例の本ね、調査の北沢さんに貸してあった。あれを何時だったか北沢さんが洗面所へ置き忘れたのよ。生憎私のサインが入っていたらしいの。今度のは、みんな私の不注意からなのよ。ばかばかしい、ったらないわ。」
「それだけなの、ここでの結果に就てじゃないの?」
「大丈夫よ。やられたのは私一人。」
「よかったわね。ほんと?」
「疑うの? 安心していいのよ。でも、私が出ちゃったら却って外部《そと》での運動《しごと》が自由でやりいいわ。こうなるのが本望だったわね、あのゴリラの奴ったら、私を罠へかけるつもりで、その実、奴自身が罠に引っかかってるのよ。醜態だわ。……でもね、これからが危険期でしょ。だからあんたの出来る限りのカモフラージュはね。」
「うん、それァね。けど、切られたあんたの首のやり場に、私苦労してるわ。」
「その心配ならいいの。私、京橋に勤口見付けてあるわ。」
「愕いた。早いひと!」
「予感がしてたのね。一週間ばかり前から。知ってるでしょう、あの有名なボロ保険のHよ。三十七円くれるって。」
「あんたの根は其処で延びるわけね。波間の海草みたいに、始終動揺してるこの事務員階級をまとめていくって、わりと骨仕事ね、だけど、此処で三十人近く集めたのは大きい事だわ。」
「己惚《うぬぼれ》ちゃ駄目よ。私達に残された仕事は、まだまだうんとあるんだから……これがほんの序の口よ。……じゃ、私、これから行って京橋きめてくるわ。」
 祥子の額にたれかかったおくれ毛を耳へ挟んでやってから、槇子は、両腕を高く振りあげて大きな背のびを始めた。



底本:「日本プロレタリア文学集・23 婦人作家集(三)」新日本出版社
   1987(昭和62)年11月30日初版
   1989(平成元)年5月15日第3刷
底本の親本:「文学時代」
   1930(昭和5)年12月号
入力:林 幸雄
校正:染川隆俊
2001年6月28日公開
2006年5月18日修正
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