ろうはずがなく、この世への恨みつらみのありったけを日毎夜毎に愚痴って居ります内、捨てる神あれば助ける神ありとやら、この地の常磐座の持主で、鹿児島県の多額納税者である尾形というかたの奥様が旅の空で可哀そうに、とのお心からわたくし共に眼をかけて下すったのです。尾形というかたは常磐座の他に志布志というところの劇場も有って居られ、酒と醤油の醸造家でもあるそうです。奥様は、良人が常磐座で月形半平太をうって居りました時は二度も御覧になられたとか、芝居は子供の頃から好きだったとか、良人にいろいろと幕内の事どもを尋ねたりなさいました。幟があったらどんなのでも宜しいから一枚くれ、と仰言り、少々古ぼけてはいましたが、持合せの茶地に白で染め抜いた市川多賀之丞丈江を一枚さしあげたのです。奥様の悦びようといったらありませんでした。何んになさるのか、とおききすると、ただ納っておくのだ、とお笑いになるばかり。
 わたくしも良人の果報を少しはねたましく思ったことでございます。
 お邸には、幸い六年もいたお針さんが病気で皈った故四十人からいる雇人の縫物に困っているから気分さえよくば少しずつお針をしてくれ、それに良人は良人で庭の手入れの方でも手伝って貰うから安気に住みこんで貰いたいとのお言葉。先方様から加様に仰言って頂く御親切は始めてのこととて、良人も手を合せんばかりの嬉しがりよう。早速親子三人お邸へ入りこんだのでございます。娘時代にしこまれたお針が今ここで役立とうとは思いもかけず、わたくしも精を出し、良人が快りきるまでは、と寝かせておいて下さる奥様のお心づかいに二倍の元気を出して働きつづけました。お邸にはちゃんとお医者も抱えてあり、三度三度の食事も勿体ない様にて、おかしい程に親子のものが肥ってまいりました。
 殊に鶴江はめきめきと丈夫になり、病後の事とて食慾が激しく、奥様はみんなにかくして、よく袂へ菓子などしのばせておいでになり、鶴ちゃん鶴ちゃん、と可愛がって下さるのですが下賤の子の礼儀もわきまえず、ありがと、のひと言もいわずに、ひったくるようにしてむしゃつく哀しさ、身のせつなさお察し下され度候。
 お邸に慣れるにつれ、内々の事どもを見ききするようになりましたが、この世の仕合せと羨やんで居りました大家の奥にも暗いかげがあり、奥様には子供さんがなく、お妾に四人もの子があってお袋様は孫の愛にひかされてお
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