にたとえようもありませぬ。
 きけば、おたがいの同情が溶け流れて深間へ落ちこんだとか、良人は生来の正直もの故、あったことのありったけを語りきかせたい素ぶりに、過ぎたことはもうそのままに……と無理にもおし止め、奥様には何事もきかず知らん顔、いつものようにお針でまめに仕えている一方、良人には幕内の気安さを説き、丁度、常磐座へかかっていた沢村海老蔵一座に話してみたところ、役者の足りないところとて早速の承諾、良人も新らしい希望にもえ立って一座の人となりました。
 思えば、このわたくしが小娘の頃、良人の舞台姿にこがれて夜毎々々通いづめ、いま奥様の心情をその当時のわたくしに移しかえてみぬ訳ではありませんが、何んとしても殺し切れないものは嫉妬の虫ばかり、それからは奥様とわたくし共の間がしっくりゆかず、一座が福島を旅立つにつれて、わたくし共もお邸をおいとますることになりましたが、別れしなに奥様は鶴江に何か買うてくれ、とて二十円も包んで下さり、何事も何事も水に流して、わたくしも奥様には悪気はもたず、有りがたさにおし頂いてお邸を出たことでございます。
 涼しくはなりましたし、良人も病気上りの目立つ程に肥えふとり、鶴江も至って元気にてこの頃ではセリフの覚えも早く、子役で時折り舞台へ出る程になり、幸いの神もようようめぐり来たかと悦んでは居りますものの、ただ気になるのはこのわたくしの躯、顔色がなおったとは言い状、咳は又してもひっきりなし、それにこの頃の胸わるさ吐き気はどうやら子が宿っているらしく、弓子の死んだあとはもう見きりをつけていたものの、この境遇にまた一人ふえられてはどうしたものだろう、出来ぬでもよい身には出来、欲しい人には出来ぬ、と歎けば、良人は、縁あればこそ子も生れるのだ、犬猫でさえ何んとか育てていくではないか、また、生んだ時は生んだで何んとかなるだろうから、くよくよ案じるな、と力づけてはくれますが日増しに重くなる身で再び旅から旅へのさすらいとは……ああ、あね様、何やかや考えるとこの身の置きどころもないように思われ、心細くて心細くてなりません。
 実は、尾形家に居ります内にも一本葉書なりと差上げるつもりでありましたが、他家にいる身にはまるでくくられているようで、御飯の時以外には体の休む時はなくたよりひとつ書けず、良人は良人とて牡丹刷毛はもてど筆もつすべは知らず、ついつい明日は明日は
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