へんだ、と思った。隣りに坐っている姉を突ついてそっと訊くと、
「どうもねえ、お父様はおきえさんの籍をいれたいらしいのよ」
と、姉も浮かない顔である。
酒がまわってだんだん座が乱れてきた。銚子を持ったおきえさんが慣れた手つきでひとりひとりを注いでまわった。酔いがまわったのか耳根をぽっと染めているおきえさんは初いういしくみえた。紀久子の前へきた時、
「さあ、おひとつ」とおきえさんは杯を取りあげて勧めたが、ちょっとためらって銚子を下へ置くと膳越しに上半身を紀久子の方へかたむけて、
「あの、わたし悪いところはどんどん仰言って頂きたいのですけど。わたし、紀久子さんの仰言ることでしたらどんなことでもききますわ」
と伏眼になって云った。声が少し慄えていた。やがて徐かに眼をあげて紀久子をみたが、その眼の中に涙をみたような気がして、紀久子は意外な感じに打たれた。
「奥さん、お酌だお酌だ」
向うの席から親戚の老人が大声で呼んだので、おきえさんは紀久子へ会釈をして立って行った。その会釈には憫れみを乞うような、愛情を求めるようなものがあった。
「余興は出ないのかね」
ざわめきの向うで酔った誰れかが叫んだ。
「どうです、お父さん、ひとつ須藤さんの喉を聞こうじゃありませんか」
兄が隣りの父へもたれかかるようにして話しかけていった。父は兄を肘で押し返して、
「ばかな!」と低く叱りつけた。
底本:「神楽坂・茶粥の記 矢田津世子作品集」講談社文芸文庫、講談社
2002(平成14)年4月10日第1刷発行
底本の親本:「矢田津世子全集」小沢書店
1989(平成元)年5月
初出:「日暦」
1935(昭和10)年11月号
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2008年8月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全20ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
矢田 津世子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング