、この哀しみが胸を痛めつけてくる。
或る陽暮れ時、紀久子が二階の部屋へ行くと、兄は電灯のついていない薄暗い窓べりの籐椅子にのけぞっていた。「兄さん!」と声をかけると、「うん」と懶げに返事をしたなり振りむきもしない。窓に近づいて顔をのぞきこむとその眼がじっと遠くの何かを視詰めているようである。視線を辿っていくと、庭を越えた向うの離れの窓へ落ちていく。その窓からは湯上りらしいおきえさんが肌をぬいで鏡台に向っている様がのぞかれる。兄の眼はどうやらそれへ執着しているらしい。明るい電灯の下におきえさんの豊かな白い肌が冴えざえと浮き立ってみえる。化粧がすんだのか、高く手をあげて髪へ櫛をいれている。手が動くにつれて盛りあがった乳房が生まなまとした感覚をそそりたてるようである。
「須藤さん奇麗だなあ」
兄が呟くように云った。思わずも言葉が口を洩れたという風である。
「まあ、兄さんは、いつもここからみとれていたの」とつい厭味をきかせて云うと、
「ばかな奴だなあ」
と兄はひょいと躯を起して電灯をつけた。てれてか眉間へ気難しげに縦皺をきざんだ兄の顔はふと紀久子にいつかの父を思い出させた。
夜分厠へ起きた紀久子が用を足して部屋へ戻りかけると、これも厠へ起きてきたおきえさんと離れの廊下のところで出あった。緋鹿の子の地に大きく牡丹を染め出した友禅の長襦袢に伊達巻き一本のおきえさんの姿は阿娜めいて昼間のおきえさんとは別人の観があった。寝乱れてほつれた髪が白い頸すじへまつわり、どうしたのか顔は少しはれぼったくみえた。裾を慌ててかき合せるようにして紀久子へちょっとお辞儀をするような恰好で厠へ入っていった。不思議に眼だけが吸われるようにおきえさんの色彩についていって厠の戸口で止まると、そこから離れの部屋を窺うように、いっ時息をひそめた。微かに父の寝息が洩れてくるように思われた。だが、もしかしたらそれは自分の呼吸の激しさかもしれない。冷めたくなった足裏に促されて紀久子は自分の部屋へ入った。ふと自分がこの間まで寝間にしていたその部屋に父とおきえがやすんでいる。――妙にそれへこだわって、どうしてもねむれない。想像が、鉛のように鈍った頭の底からつぎつぎと現われてくる。そして、この想像の跳梁に身をまかせている自分を忌々しいと思いながらも、どうしようもなくそこから抜け出せないのだった。
その翌朝はへんに
前へ
次へ
全20ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
矢田 津世子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング