せた。ふと、ゆるんだ懐ろに剃刀を見て、
「あっ!」
と、鋭く叫んで、矢庭に下駄を投げつけた。
仙太は剃刀を思い出した。懐ろへ手をやった。馬車に逃げ込もうとした女の髪を引っ掴んで、ひき倒した。女は手で自分の喉を抑え、うつ伏せになろうと努力した。白い刃が閃いた。鮮血が女の顔に一線をひいた。と、どどっと流れて水溜りを赤く染めた。男の腕が振り上がり、女の頸に突き刺さった。女は低く叫んだ。うつ伏せになり動かなくなった。
犬は狂ったように吠え立てた。二人の廻りをぐるぐる廻っていた。
お高は、現在《いま》、達者で、秋田市の茶町に、居を構えていると聞いている。あの事件以来この町にも居づらくなって、間もなく、菅原一家は夜逃げ同様引き移っていってしまった。せんだって、この町の助役の奥さんが、県下へ出たついでに立ち寄った折りの話によると、お高の父親の孫市は、ブローカーとは名ばかりの、下駄べらしに出歩くばかりが能だというし、この年寄りを抱えて、お高は、お針の師匠をつとめるかたわら、手内職ごとで、どうにか生計をたてているという。
奥さんと話している間、お高は、袂で片頬を隠すようにしていたが、大きな疵あとが、眼の下から頸部へかけて、黒ずんだ溝をつくり、そこだけ皮膚がひきつっているため、ちょうど顔半分が竦んでいるようにみえたという。
この奥さんの話から、町の人たちはとりどりに噂をひろげていった。
疵が邪魔とは言いじょう、若い頃あれほどの縹緻よしだったお高が、今迄独り身でおかれるわけはない。囲いものさ、などと取り沙汰をするものもある。
あぶらやの後取り息子の仙一が、茶町のお高の家から出て来るところを見かけた、というものもあって、町の噂はだんだん活気づいてくる。
今年十九の仙一は、父親に似て背が高く、眉の初々しい若者だ。店のことから、飲んだくれの父親の世話まで万端ひとりで取りしきっている。隣家の判こ[#「こ」に傍点]屋の末娘と、どうとやら、この日頃、噂をたてられているようだけれど、これも、噂好きな町の人たちの、ほんの噂ばなしかもしれない。
[#地から1字上げ](昭和十三年十二月)
底本:「神楽坂・茶粥の記 矢田津世子作品集」講談社文芸文庫、講談社
2002(平成14)年4月10日第1刷発行
底本の親本:「矢田津世子全集」小沢書店
1989(平成元)年5月
初出:「婦人文芸」
1934(昭和9)年6月号
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2008年8月16日作成
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