事はなかった。耳をすました。併し、なんにも聞えなかった。
「今晩は、今晩は」
戸口を敲いてみた。仙太はだんだん息苦しくなるのを感じた。赤子は泣き歇まない。
鶏が時をつくっていた。
もう一度、と心に決めて敲いた。戸の音が妙に冴えているように感じられた。
仙太は戸を離れた。動こうとしない黒を「叱っ!」といって追い立てた。そして、懐ろの児も忘れて、項垂《うなだ》れて家へ帰った。
「この寒さに何処さ行ってた! 子供を殺す気か」
と父親が怒鳴った。
母親は赤子を受けとるとすぐ自分の懐ろに入れて、皺んだ袋のような乳房をあてがいながら、
「何んと、手こ[#「こ」に傍点]の冷えていること! お前のお父さん酷《ひで》えお父さんだな。よしよし、今すぐ牛乳《ちち》のませてやるよ」
冷えきった赤子の手をしゃぶってやりながら、炉端へいざり寄った。
仙太は一言もいわずに次の間に入った。そして、寝床の上にうつ伏せになったなり、男泣きに泣いた。
仙太は、また、山に行きはじめた。
守山は、もう、黄色な山肌をすっかり現わしていた。雪はわずかに、陽蔭に汚れたまま残っていた。
女衆は、嫁菜や芹つみに、ずくずくする畔道や堀の岸に集った。
「仙太さんでねえしか」
女衆は手のひらで額へ陽かげをつくりながら声をかける。
「山さかい。山さ行ってもお高さん居ねえしてえ」
そして、どっと笑い合った。
町では、菅原孫市がとうとう町長に費消金をはらってもらったという評判だった。町の人々は、菅原派とあぶらや派の半々に別れた。町会でも、兎角感情の衝突が頻発するようになり、あぶらやでは相当金を撒いているとも言われた。
仙太は町の噂には一切耳を藉さなかった。
お高が秋田市のさる大家へ乳母として一と月程前勤めに行ったという話をきかされた時も、別段動揺しなかった。昼間は、犬をつれて、山へ行った。銃は持たなかった。そして、家へ帰ると子供を抱いたまま炉端に坐りこんで、じっと物思いに沈んだ。
町では、仙太について、いろいろの取沙汰をしていた。しかし、仙太は、噂には無感覚になっていた。
五月の末であった。二三日雨が続いた。
赤子が腸カタルを起して、仙太は徹夜をつづけた。ひいひい、声を絞る赤子を抱いて、夜中部屋の中をとんとんと往き来した。ようよう泣き歇んで、横にしたかと思うと、すぐにまた声を絞った。仙太は、また、抱き上げて、とんとん、と歩きはじめる。
医者は、時候のせいだと言った。曖昧に笑いながら、
「なんといっても、母乳にかなわねえですからな」とも言った。
医者の帰ったあと、仙太は、永い間赤子の枕元に坐っていた。赤子は眼をつむったなり絶えだえに泣いた。仙太は赤子を忘れたように、腕組みをして黙りこんだ。そして、気力なく立ち上り、自分から薬をとりに医者の家へ行った。
新町の通りで、時二郎に声をかけられた。
「仙太さん、なんと、窶れたなあ」
「仙一が具合わりくてな」
「そうかい、大事にな」
時二郎は行きすぎてから戻ってきて、
「お前《めえ》、知ってるかい。お高さん、あさって県下から帰って来るってな」
「俺にあ用はねえ」
と、仙太は横を向いた。
翌々日、空は晴れあがっていたが、街道にはまだ処々に水溜りがあった。
仙太は、弱々しい寝息を立てている子供の傍で、久しぶりに髭を剃った。鏡の中の顔を見、子供の顔を見た。どっちも、げっそり痩せていた。
午すぎて、仙太は、山へ行く、と言ったなり黒をつれて家をとび出した。
「全で子供みてえなもんだな。好き勝手なことばかりして……」と、母親は愚痴っていた。
駅からの往還を町へ三丁手前の七曲りの松の傍まで来た時、仙太は時計を見た。そして根かたに寝転んだ。
馬車は一時三十五分に一台通った。仙太は立ち上ったが、また、寝転んだ。そして、そのまんま、ぐっすり眠った。
はっと気がつき、しまったと思った。背中がぐっしょり濡れていた。時計は併し下りの馬車が来るまで、十分程あった。動悸のはずみを、じっと抑えた。
馬車が姿を現わすと、仙太は往来へとび出した。彼《あれ》を慥かに視た。
「爺っちゃ、止ってけれ!」
馬車屋は、中の客へ早口に何か言って、馬に鞭をあてた。馬車は傾き、水煙りをたてて仙太の前を激しく揺れ進んだ。
「待て!」
と、仙太は叫んだ。
「話あるから、待て!」
仙太は馬車を追った。犬は吠え立てながら先を走った。
「なして、待たねえんだ!」
ようよう馬の手綱を掴えて、息を途切らし、いきなり馬車にとび乗りさま、お高に襲いかかった。
「仙太さん!」
お高は抵抗した。仙太はお高を馬車の外へ曳きずり落した。犬は二人のまわりをぐるぐる廻りながら吠え立てた。
「話きいて、さ」
お高は道に膝をついて、落ちつかせようと男の着物を合
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