茶粥の記
矢田津世子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)姑《はは》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)山|間《あい》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]
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 忌明けになって姑《はは》の心もようよう定まり、清子と二人は良人の遺骨をもって、いよいよ郷里の秋田へ引き上げることになった。秋田といってもずっと八郎潟寄りの五城目という小さな町である。実は善福寺さんとの打合せでは五七日忌前に埋骨する手筈になっていたけれど、持病のレウマチスで姑が臥せりがちだったし、それにかまけてとかく気がすすまない様子なので、ついこれまで延びてしまった。それというのが四十九日の間は亡き人の霊が梁のところに留っているという郷里の年寄り衆の言い慣わしに姑も馴染んでいるためで、その梁の霊を置き去りにすることが姑にはどうにも不憫でならないらしかった。
 荷をあらかた送り出して明日立つという前の朝、清子は久し振りで茶粥を炊いて姑と二人で味わった。良人のお骨へはふだん用いつけていた茶碗に少しばかりよそって供えた。この茶粥は良人が好物だった。大分以前から食通として役所の人たちや雑誌の上などで名が知られていたほうなので、ついその賞め言葉に乗って一途な清子は無暗とお粥をこしらえる。それが毎朝つづくという風でしまいには姑も良人も笑い出してしまうのだった。
 清子の茶粥は善福寺の老和尚からの直伝である。極上等の緑茶で仕立てる。はじめっから茶汁でコトコト煮るよりは、土鍋の粥が煮あがるちょっと前に小袋の茶を入れたほうが匂いも味もずんと上である。この茶袋の入れかげんがまことに難かしい。お粥の煮える音でそのかげんをはかるので姑はお粥炊きの名人だと感心する。それでなおのこと打込んで、いろんなお粥を工夫しては喜ばれる。紫蘇粥、青豆粥、海苔粥、梅干粥……この梅干のお粥のことは良人が「味覚春秋」の新年号にも書いたほどである。グツグツ煮えはじめた頃合いを見はからって土鍋の真ん中へ梅干を落して、あとはとろ[#「とろ」に傍点]火で気長に煮あげる。粥は梅干の酸味を吸い出し梅干は程よい味にふっくらと肉づいて、なんともいいようなく旨い。サラッとした口あたりが殊によい、梅干は古いほどよかった。良人の役所の小使が宝のようにしていたという明治二十六年漬の梅干を拝むように頼んで分けてもらったのが今でも大事に納ってある。いつだったか近所に火事があったとき、良人がこの梅干の小壺を抱えてうろうろしていた恰好があとあとまで笑い種《ぐさ》になった。
 土鍋一つで清子がいろいろなお粥をこしらえるものだから良人は清子のことを「粥ばば」と言ってからかったものだった。手入らずのお金《あし》かからずだとて、客をもてなすにも清子のお粥である。良人はよくこう冷やかした。
「役所が馘になったらお前さんにお粥屋をはじめてもらうよ。粥清《かゆせい》とでも看板をあげるか。いかに何んでも粥ばばではね、色気がなさすぎる」
 自分の思いつきに独りでクスクス笑うのだった。こんなことも附けたした。「そしたら憚りながら俺は手ぶらで食わせてもらうよ」
 清子も負けてはいなかった。
「どういたしまして。そうなったら旦那さまには前掛けをさせてお米とぎから火おこし、それから出前持ちをして頂きますわ」
「おやおや、女房の煙管で亭王こき使われかい」
「煙管どころか、わたし算盤で大忙しよ」
 思えばこうした楽しいやりとりも今となっては詮ない繰り言になってしまった。
 この頃になって清子はやっと正気づいたような気持で亡夫のことをあれこれと思い出すのだけれど、眼にまつわるのはその面立ちよりも不思議にいかつい肩のあたりや墨汁臭い指だった。この思いがけなさに清子はまごついた。良人はいくらか猫背の右肩だけが怒ったようになっていて、そのため後ろ姿が癇の強い年寄りじみて見えた。長年硬筆を使っていたため右手の中指にはコチコチのたこ[#「たこ」に傍点]が出来ていて、そこだけ墨汁が染みこみ黒ずんで、風呂に入ってもどうしても落ちなかった。
 良人は区役所の戸籍係りだった。二十七の齢から勤めはじめて一年ほど清掃係りをしていたが、今年四十一歳で亡くなるまで戸籍係りを動かなかった。郷里の師範学校を出るとすぐに一日市《ひといち》の小学校に奉職したのだったが、文検を志して、やがて一家をあげて出京したのだった。夜間大学の高等師範科に通うかたわら、ほんの腰掛けのつもりで勤めはじめた区役所が、とうとう本坐りになってしまった。文検のほうは、いつからか諦めていた。
 良人の係りは書くことが仕事だったし、混む日など楽しみな昼食もそこそこに切り上げて書きづめだった。右上りの、力を入れて書くのが癖だったので、慣れないうちはよくガラスペンを折った。墨汁の染みた海綿にペンを引っかけて容れ物を落したり、粗忽な良人はよく失敗《しくじり》をした。たびたびのことなので用度係りへ請求するのに気兼ねして、しまいには家から持ち出した化粧クリームの空瓶を海綿入れにしていた。事変になってからは事務が殊のほか輻輳して、どの係りも追い立てられるような忙しさだった。役所の建物は古く薄暗くて、各係りの机の上低く朝から電燈がつけっぱなしになっていた。良人の係りでは謄本や抄本が日に何十通となく出た。この頃は中商工業者の転業失業のためにも謄本がよけい出るようになった。居残りが続いた。家に戻って晩い食卓につきながら箸がうまく動かせないで、良人はしきりと指を揉んでいることがあった。
「手が馬鹿になった」
 不審がる清子へ良人は笑いながらこう言って、右の手くびをカクンカクン振ってみせたりした。
 墨汁で顔まで汚したり、袖カバーをはめたまま戻ってきたりすることがよくあった。このカバーは清子のお手製だった。買ったものは品が弱く、すぐ破いてくるので、清子は姑の不用になった毛繻子の帯をもらって、二つも三つも丈夫な袖カバーをつくっておいたのだった。
「今日はね、おかしな結婚届があったよ。嫁さんも婿さんも操っていうんだがね」
 役所の中のことはあまり口にしないほうだったが、それでも時たま思い出し笑いをしながら姑や清子を相手に話した。
「尤も、操だからいいようなものの、これが有馬省君とせんさんじゃあ、夫婦喧嘩が絶えやしない。ありましょう、ありませんで始終角突き合いだ」
「なんですの、それ、落し話?」
 清子はくつくつ声をたてて笑った。謂われを聞かせられて姑も一緒になって笑った。
 いろいろな届出がある中で良人がわずか張りを覚えるのは婚姻届を扱うときだった。
 省線で通勤していた良人は、朝の電車の雑沓ぶりを帰る早々演じてみせたりしては姑や清子を笑わせたものだったが、殊に乗換場になっている新宿駅ホームの殺到ぶりは、小男の良人に言わせると「呑まれっちまう」ほどの人なだれで、うっかり眼ばたきも出来ない。眼ばたきしている間に揉み出されるという。良人は弁当箱を両手でしっかりと胸に抱いて、雨傘を持っているときは雨傘も一緒に抱いて、ちょうど手無しの達磨といった恰好で押し乗せられる。「大胆に! 敏捷に! そして細心に!」というのが良人の、雑沓時の乗車モットーだったが、いつだったか、うかと手ぶらでいて引きもがれそうな目に会ってからというもの、良人はいよいよこのモットーを振りかざし、特に「細心に!」と肚に力をこめて自分に言い聞かせていた。
「今朝なんかね、俺の前にいた学生の胸のとこに納豆の豆がくっついてるんだ。教えてやろうにもどうにも……」
 乗ったが最後身動きが出来ないという。顔を曲げたら曲げっぱなしで運ばれて行く。小男の良人は人の息、それも味嗜汁臭い息を吐きかけられながら達磨になって凝っとしている。
「いっぺん連れてってやりたいよ。殺人的雑沓さ。お前さんなんか袖も何も引きちぎられちまう」
 良人は得意なときには目玉を剥いて右の怒り肩をちょいと聳やかす癖がある。このときも清子は良人の剥き眼を見て、人混みに揉まれているのにこの人は一体何が嬉しいんだろうと、おかしな気がした。
 良人のことで清子が苦労したことと言えば毎朝つめる弁当のお菜《かず》である。いくら塩鮭《しゃけ》が好きだからといっても、そう毎日塩鮭ぜめにするわけにもいかない。惣菜屋から買ってきたものは良人が好まないので清子は前の晩からいろいろと頭を悩ませる。金ピラ牛蒡にしたり、妙り豆腐にしたり、前の晩自分の分をこっそり取りのけておいたコロッケなどを詰めてやったりする。時には良人も役所で饂飩をとって我れと我が身に奢ってやったが、「二杯も食われちゃ間尺に合わない」と饂飩好きな自分の口に厭味を言って、やっぱり塩鮭入りの弁当を持参した。
 この弁当をつかうときが良人にとっての一番の楽しみだった。炭不足の話が出る。酒が手に入らぬ話が出る。菓子を買うのに行列の中に入って一時間以上も立ちん棒をした話が出る。けれども物資不足からくるこの頃の切り詰めた生活の簡易さは、この役所に勤めているほどの人たちには今更こと新しく取り立てるまでもなく、結局、慣れた手頃な暮しなのだった。
 向い側の寄留係りはよく飽きもしないで煮豆を詰めてくる男だったが、女学校へ行っている娘があって、それが弁当の世話をするらしい。思いがけず玉子焼が入っているときなど、風《ふう》のあがらない薄髭をにやにやさせて蓋に一と切れのせて、こっちへも勧めてよこした。食べ物の話がはずんだ。鯨の赤肉の栄養価値を説くものがあった。カツレツにして食べると結構牛肉の中どころの味が出るという。値が安く鱈腹食べられるというので、なかなかの人気だった。良人の味覚談義がはじまるのはこんなときである。
「鈴木さんのように舌の肥えている人にかかっちゃねえ」
 役所の中で良人は食通として定評があった。聞き手たちは良人の話からまだ知らぬ味わいをいろいろに引き出しては、こっそりと空想の中で舌を楽しませる。
「この頃の牡蠣の旨いことったら、どうです。シュンですな。せんだって松島牡蠣を土産に貰いましてね、どて[#「どて」に傍点]焼にして食べましたよ……」
 誰かのこんな話がきっかけになって、良人の食通ぶりが発揮される。
「牡蠣は何んといっても鳥取の夏牡蠣ですがね。こっちでは夏は禁物にされているが、どうしてどうして鳥取の夏牡蠣ときちゃあ堪らない。シマ牡蠣ともいいますがね、ごく深い海の底の岩にくっ着いている。海女が獲ってきたやつをその場で金槌を振るって殻をわずか叩き割り、刃物を入れて身を出すんだが、こいつが凄く大きい。そうですね、この手のひらぐらいは十分にありますよ。身が大きく厚いところへもってきて実は色艶がいい。こいつの黒いヘラヘラを取ってね、塩水でよく洗って酢でガブリとやるんです。旨い。実に旨い。一と口で? いやあ、とても一と口でなんか食えやしませんよ……」
 身を入れて話すと良人の口調には知らずしらずに国訛りがまじる。
「鮑ですか? 近海ものは御免ですね。まあ沼津あたりのだったら、どうやら我慢もできるですが……、といって、これが沼津で食ったんじゃ味がない。樽に塩漬したのを馬の背に積んで甲府まで運ぶんですよ。富士の裾野をジャンガゴンガ揺られて甲州入りだ。鮑はちょうど食べかげんのこたえられない味ですな。輪島産のも……あの塗物で有名な能登の輪島ですな、あそこの鮑も結構なもんです。鮑の中のお職ですな。外向きは実に堅い。ちょっと歯をあてたぐらいでは、へこまない。ところが噛ってみると実に柔らかなんだ。コリコリと……そのくせ、こいつが舌の上でとろけていく。外柔内剛、いや外剛内柔か。あれが鮑の中の鮑でさ」
 良人の話はだんだん熱をおびてくる。聞き手たちもあれこれと口をはさむ。
「その話で一杯やりたくなった」
 などと番茶を啜ってみせる老人もいる。
 良人の話がはずむ。そして次第に凝っていく。普茶料理が出る。黄檗普茶のその謂われ
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