つもの[#「いつもの」に傍点]お面をかぶる合図ともなっているのだ。小半丁ばかり歩いたところに家がある。格子を開けると、足の悪い女中の種が出迎えた。跛をひきひき爺さんのあとから跟いてきて、脱ぎすてた羽織や足袋の類を片付ける。爺さんはちょっとの間気嫌の悪い顔付きでむっつりと黙りこんでいる。よく仕事の上での訪問づかれで戻った時など爺さんはこんな顔をするのである。
「どうも、莫迦に蒸すねえ」
 湯帷子に着換えた爺さんは団扇を使いながら内儀さんの病室にあてた奥の六畳へ入っていく。やすんでいるとばかり思った病人は床の上へ坐って薄暗い電球を低く下して針仕事をしている。
「お疲れさまでした」
 針の手を休めて内儀さんが徐かに顔をあげた。爺さんが外から戻った時のいつもの挨拶である。ものを云うた拍子に咳こんで、袖口を口へあてたままでいる。明りの加減か、永年の病床生活の衰えが今夜はきわ立ってみえる。下瞼のたるみが増して、なすび色の斑点《しみ》が骨高い頬のあたりに目立っている。咳をするたびにこれが赤ばむ。
「仕事なぞをせんでもいいに……」
 爺さんは優しい窘《たしな》めるような調子で云った。
「それがね、あなた、遊んでばかりいると、この指さきが痛んでしようがないんですよ。こうやって、まあ、お針を動かしていると、どうやら痛みも止ったようです」
 咳の納ったところで内儀さんはこう云った。そして、脂っ気のないかさかさした指から徐かに指ぬきをはずしながら、「わたしの手は、もう、根っからの働きもんとみえますねえ」と云うて、力のない笑いようをした。
「そうさなあ。俺だって半日も算盤を使わないでいれば妙にこの手が退屈するものなあ。稼ぐに追い付く貧乏なし、ってな、昔の人はうまいことを云うたものさ」
 爺さんはこの諺が今の場合あてはまっているとは思わないが、どうもほかにうまいことも思い付かないので、これをちょっとの間に合せにした。爺さんが渡仙《わたせん》(羽後の名立たる高利貸の渡辺仙蔵)の手代をしていた頃、大番頭の丸尾さんというのが大そう主人の気にいりで、下《しも》の者にも受けがよい。下《しも》の者が何かの粗忽をした時などは頭ごなしに呶鳴りつけるようなことをせず、一同揃うて御膳を頂いている折りなどに諺を混えたりしてそれとなく意見をされる。こまごまと云われたことは忘れてもその折り折りの諺だけが妙に残る。馬淵はいつもこれに感心していた。そして丸尾さんを倣う心がいつの間にか爺さんの内には根になっていて、その頃から頭に残っている二つ三つを何かというて使ってみたいのである。
 爺さんは内儀さんに問うた。
「何を縫うているのだい?」
「小村さんから届いていた袷が余りおくれていますのでねえ」
「なあに、袷には当分間があるんだし、そんなにつめて[#「つめて」に傍点]しちゃあ躯にさわらあな」
 団扇の風を爺さんは優しく内儀さんの方へ送った。小村さんというのはすぐ裏手の、馬淵の持家に入っている後家さんで、これがお針の師匠をするかたわら御近所の賃仕事をひきうけている。そのうちの二三枚を馬淵の内儀さんが分けてもらって小遣い銭の足し前にしていた。若い頃、賃仕事に追われがちだった内儀さんの指さきが今もその仕来りからお針が離せないのである。「何もよそのお仕事までなさらずともよい御身分ですのに」と、時たま裏の後家さんが探ぐるように云うたりすれば、内儀さんは愛想笑いをみせながら、「ほんの退屈しのぎでございますよ」と云うのがおきまりになっている。しかし、心の中では、「こんな手だって、あなた、動かしていさえすればお宝になりますもの。遊ばせておいたのでは、つまりませんからねえ」と、こんなことを云うている。
 根がしまつ屋の爺さんには内儀さんのここんところが大いに気にいっている。お初などには真似の出来るこっちゃない。何んというても、うちの内儀さんだわい。――こう満足した爺さんの心が今も団扇持つ手へ働いて、つい内儀さんを煽いでやることになったのである。
 枕元に置いてある猪を型どった蚊遣の土器《かわらけ》から青い烟りの断え断えになっているのをみて内儀さんが種を呼んだ。
「いやあ、もう、遅いからやすむとしよう」
 爺さんはこう云って蚊遣の土器をひき寄せて渦のまま灰になっている分を払い落して、残った小さいのに蛍のような火の付いているのを「あっちちち」と云いながら指の腹で揉み消している。無駄事の嫌いな爺さんは、こうしておけば気がせいせいするのだ。
「それでは、おやすみといたしましょう」
 と、内儀さんはそこへきた種の手をかりて手水へ立った。廊下を軽く咳こみながらゆるゆると歩んでいくうしろ姿がどこやら影が薄い。爺さんはそれを見送りながら「内儀さんも永いことはないなあ」と不憫になってきた。一生一度の思い出に、紋付の羽織を着て上方見物に行ってみたい、と口癖のように云うていたが、それをはたしてやらなかった自分が少々うしろめたい気もする。だがまあ、おとむらい[#「おとむらい」に傍点]にいくらか金をかけてやれば、それで気がすむというものだ。爺さんは背中へ団扇の手をまわしてぱたぱたと喧しく蚊を追い払った。
 手水から戻ってきた内儀さんが思い出したように爺さんをみて云った。
「そうそう、あなたのお出かけのあとへ安さんがおみえんなりましてね」
 山吹町通りへ唐物店を出している爺さんの弟の安三郎のことである。
「ふむ、何んで安がまた来たんだい」
 爺さんは気のなさそうな顔で問うた。安さんの来たのを余り悦ばないようである。
「太七さんのことをお話なさってでした」
 枕のところの小さい黄楊の櫛を取って内儀さんは薄い髪を梳している。その眼が窺うようにちら、と爺さんをみた。
 安さんの次男坊で商業の二年生になる太七を馬淵家の養子にしてはくれまいか、とこの頃では当の安さんがそれを頼みに何辺か足をはこんでいる。あと取りがいないでは寂しかろう、と内儀さんを唆かし、どうせ養子を取るなら血のつながっているものの方が親身になれるから、と爺さんを口説いているのだった。それを爺さんはいつもよい加減に聞き流しにしている。自分の不遇時代にせっぱつまった揚句の三十両の無心を安がどんなそっけなさで断ったか。――爺さんはその時のことを思うと肚が煮え立つのである。当時、京橋の方で手広く唐物の卸し問屋をしていた安さんは、生憎遊んでいる金が無いから、と云うてこの無心を突っぱねたのだった。それが今おちぶれて、身上をあげた爺さんへ縋りついてくる。爺さんの面白くないのも無理がない。
「何んぼ、安が来たって、太七の話は駄目だ」
 爺さんはそっけなく云い放った。それを聞いて内儀さんは「爺さんは、まあ何んて頑固なのだろう」と思うのだが、ほんとうはそれ程爺さんを批難する気もちも起らない。息子を養子にしたい安さんの下心が内儀さんにもうすうす分っていて、これを爺さん同様うとましく思っているからである。
 爺さんに子供を貰ってはくれまいか、という親類はこのほかにもある。爺さんの兄《あに》さんにあたる郷里の小学校長と内儀さんの従弟の代書屋である。この校長さんの方などは、爺さんが渡仙の手代をしていた頃は、高利貸しの弟はもたれぬ、などというて家へも寄せつけず、その扱いようは蛇蝎をみるが如しであった。それがいつの間に心がほぐれたのか季節の見舞いは欠かさぬようになり、盆暮には心をこめた郷里の名物が送られるのである。
 爺さん夫婦は養子の話が出るたびに顔を見合せて苦が笑いをする。どうも素直には話にのれぬ気がするのだ。安さんは兄さんや代書屋を貶して、あれたちは財産めあてなのだから、と暗に警戒を強いるし、兄さんの方ではまた安さんや代書屋に兎角難くせをつけたがる。それへ代書屋が内儀さんを突っついて何んとか色をつけて貰おうと焦せる。爺さん夫婦にすれば、どの親類も下心があって近づいてくるように思われるので、どの親類をも易々と信用することが出来ない。それに爺さんには、自分の不遇時代にとった親類のいかにも冷淡なあしらいようが心にこたえているので、今更お義理にも親類のためを思うなどいう気もちにはなれないのだ。それどころか、親類のものたちがつめ寄れば寄る程、爺さんの心は金をしっかと抱いて孤独の穴倉へとのがれていく。ここまで貯めるには若い時から並大抵の苦労ではなかった、と爺さんは今更のように懐古して、心に抱いたお宝をしんみりと愛《いと》おしむのだ。
 爺さんは渡仙の店で働いていた頃は猪之さんと呼ばれて、しっかり者の主人にみっちりと仕こまれた。渡仙は高利と抵当流れで儲けて、一代で身上をあげた男であった。その儲けっぷりを世間では悪辣だなどと評するのだが、誰ひとり彼の仕事に勝つものが出てこない。どんな悪評があろうとも彼は結局羽後で随一の高利貸し渡仙であった。
「どうも、世間の者あこの俺を高利で食っとる云うて白眼視するがな、三井三菱とこの俺と較べてどれだけやり口が違うというのだ。奴らは背広を着とるが、この俺あ前垂れをかけとる、というだけの違いじゃあないか」
 渡仙は店の者のいる前でよくこう云うて嗤った。また、「義理、人情で算盤玉ははじかれない」と云うて貸し金の取り立ては一歩も譲ろうとはしない。世にいう渡仙は梟雄のたぐいであった。その度胸のよさと商売上のこつ[#「こつ」に傍点]と節約ぶりを猪之さんはそっくりそのまま頂戴している。尤も、その節約に実がいりすぎて爺さんのはちと嗇《しわ》くなっている。

     三

 渡仙の手代をしていた頃から猪之さんは近所のものへ小金を貸しつけ、そのうち持ち金が利子で肥ってくると少しばかり商売気を出して玄関脇へ「小口金融取扱います」と小さい看板を出した。それまで仕立物の賃仕事で暮しむきの不如意を補うていた内儀さんもこの頃になってやっとひと息ついたところであった。それだからといって手を休めて安閑と遊んでいた訳ではない。却って内儀さんの手は前よりも稼ぎ出したのである。ただ、そこには金に追われていたこれまでの苦労に代って、こんどは金を追いかける心愉しさが手伝っているので、これが内儀さんの気を安くしていた。猪之さんには内儀さんのこんな稼ぎっぷりが意に叶っている。石女なのが珠に瑕だが、稼ぎっぷりといい、暮しの仕末ぶりといい、こんな女房は滅多にいるものじゃあない。諺にも、「賢妻は家の鍵なり」というが、どうして、うちの内儀さんときては大切な金庫《かなぐら》のかけがえのない錠前だわい、と猪之さんには内儀さんを誇りにする気もちがある。これが内儀さんにもうすら分っていて、御亭主の信用を地に堕すまいとする気から余計に賃仕事の稼ぎ高をあげようと努める風がみえる。纏った金を持って上京してからは、猪之さんも亦渡仙のように抵当流れで儲け初めた。抵当ものは土地を主としてその鑑定のかけひきは渡仙の手を用いる。彼処が悪い、此処が気にいらぬ、と文句をつけて、先方が評価をぐっとひき下げても、なお意に叶うまでぐずぐずと苦情を云う。この土地の鑑定に猪之さんはよく出張した。北海道や九州辺りへも行くことがある。最初からもの[#「もの」に傍点]にならぬ、と決めてかかっている抵当物でも鑑定だけは是非ひきうけるという風である。これには猪之さん独特の手があるからだ。二等の汽車を三等に、それに滞在費を加えると相当の旅費が手に入る。先方へつくと何分不案内な土地でしてな、と迎いの人に案内をさせ、あわよくばその案内人の家へ泊りこんだりして宿賃を浮かせる算段をする。汽車旅をする人たちはどういうものか気が大まかになって新聞や雑誌の類を読み捨てにしていくことがある。猪之さんはこれを勿体ながって、足元に転っているサイダアや正宗の空瓶と一緒に信玄袋へおしこんで土産に持って帰るのを慣しとしている。普段もこんな調子で、爪楊枝一本無駄にはしない。使い古してささくれたのは削ってまた共衿の縫目へ差しておく。一枚の紙も使いようだというて、字を書いて洟をかんで、それを火鉢で乾してから不浄へ用いる。こんな仕来りが老いるにつれて嵩じてくる。そして、人はよく爺さんの家に女中のい
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