も知らないおっ母さんは「お初は、まあ、気がねなどをしてさ」などと独り言を云うて揉み手をしながら降りていく。そして、梯子段の下で癖の二階の気配に耳をすますような恰好をしてから、店つづきになっている四畳半の火の気のない長火鉢の前へつくねんと坐って通りの方を眺めているのが例になっている。
 今もそんな風に通りをみていたおっ母さんは、欠伸をしながら柱にかかっていた孫の手[#「孫の手」に傍点]をはずして円めた背中へさしこんで、心地よさそうに眼をつむって掻いている。

     二

 馬淵の爺さんが妾宅を出たのは十一時が打ってからであった。毘沙門前の屋台鮨でとろ[#「とろ」に傍点]を二つ三つつまんで、それで結構散財した気もちになって夜店をひやかしながら帰って行く。電車通りを越えてすぐの左手の家具屋の露地を曲ると虎丸撞球場というのがある。この前まで来ると爺さんは何とはなしに心の緊張を覚えるのが常である。手に持った扇子を帯へさしこみ、衿元のゆるんだのを直したりする。それから懐へたたんで入れておいた手拭いで顔をひと撫ですることを忘れない、つまり、爺さんがためには虎丸撞球場のこの明い軒燈は脱いでおいたい
前へ 次へ
全42ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
矢田 津世子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング