出て、
「おや、まあ、旦那、お久しうございます」
と鼠鹿の子の手柄をかけた髷の頭を下げた。「お初はちょいとお湯《ぶ》へ行ってますんで、直きに戻りますから」
お上さんは爺さんがずっと面倒をみているお初のおっ母さんである。梯子段のところまで爺さんを送っておいて店へひきかえした。
六畳ふた間のつづきになっている二階のしきりには簾屏風が立ててある。それへ撫子模様の唐縮緬の蹴出しがかけてあった。爺さんは脱いだ絽羽織を袖だたみにしてこの蹴出しの上へかけてから窓枠へ腰を下してゆっくりと白足袋をぬぎにかかった。そこへおっ母さんがお絞りを持って上ってきた。
「さっきもね、お初と話していましたよ。今日でまる六日もおいでがないのだから、これあ、何か変ったことでもあるのかしら、あしたにでも魚辰さんへ頼んで様子をきいて貰いましょう、なんてね、お案じ申していたところでしたよ」
魚辰というのは馬淵の家へも時たま御用をききにいく北町の肴屋である。
「なにね、この二、三日ちょいと忙しかったもんで、それに、家の内儀さんがね、どうも思わしくないのでねえ」
爺さんはお絞りをひろげて気のすむまで顔から頸のあたりを撫で
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