着て上方見物に行ってみたい、と口癖のように云うていたが、それをはたしてやらなかった自分が少々うしろめたい気もする。だがまあ、おとむらい[#「おとむらい」に傍点]にいくらか金をかけてやれば、それで気がすむというものだ。爺さんは背中へ団扇の手をまわしてぱたぱたと喧しく蚊を追い払った。
 手水から戻ってきた内儀さんが思い出したように爺さんをみて云った。
「そうそう、あなたのお出かけのあとへ安さんがおみえんなりましてね」
 山吹町通りへ唐物店を出している爺さんの弟の安三郎のことである。
「ふむ、何んで安がまた来たんだい」
 爺さんは気のなさそうな顔で問うた。安さんの来たのを余り悦ばないようである。
「太七さんのことをお話なさってでした」
 枕のところの小さい黄楊の櫛を取って内儀さんは薄い髪を梳している。その眼が窺うようにちら、と爺さんをみた。
 安さんの次男坊で商業の二年生になる太七を馬淵家の養子にしてはくれまいか、とこの頃では当の安さんがそれを頼みに何辺か足をはこんでいる。あと取りがいないでは寂しかろう、と内儀さんを唆かし、どうせ養子を取るなら血のつながっているものの方が親身になれるから、と
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