で様子をきかせてみよう、と母娘のものが話しているところへ、
「ごめんよ」
 と三和土を入ってくる爺さんの下駄の音である。さきになってとっとと二階へ上って、
「どうもねえ、うちの内儀さんもいよいよ駄目だよ。ゆうべっから、もう、ろくすっぽ口もきけない仕末だ」
 と、腕ぐみをしたまま暗い顔で考えこんでいる。お初が何か問うても「うん」とか、「いや」とか頷くだけで、そんなちょっとの間も心は内儀さんへ奪われているという様子である。
「ひとつ、元気をつけて下さいましよ」
 おっ母さんがお銚子を持って上ってきた。
「そうだなあ」
 と爺さんは苦が笑いをして猪口をうけている。そこへ、店で誰れかが呼んでいるようなのでおっ母さんが降りていってみると、種が息を切らしながら立っていて、
「旦那様にすぐお帰りなさるよう云って下さい!」
 と、突っかかるような調子で云った。

     五

 馬淵の内儀さんが亡くなってからふた七日が過ぎている。
 この頃、爺さんは袋町へも行かないで、終日家にこもってお位牌のお守《も》りをしていることが多い。花の水をかえたり、線香の断えないように気を配ったり、内儀さんの好物だった豆餅を自分から買うてきてお位牌へ供えたりする。夜分もお位牌が寂しかろうとその前へ種と並んでやすんでいる。内儀さんが亡くなる前まで着ていたとんぼ絣の湯帷子が、壁のところのえもん竹にかけてある。爺さんのやすんでいるところからそれがまっすぐに眺められる。爺さんには、そこに内儀さんがつつましやかに立っていて何やら話しかけているような気がしてくる。内儀さんの声は低く徐かで、何か意味のとれぬ愚痴のようなことを云うている。爺さんはそれをききながら「ああ、いいよいいよ」と胸の内で慰めている。「お前さんもなあ、不憫な人だったさ。新らしい着物一枚着るじゃあなしよ」爺さんはこう話しかけてほろりとする。欲しいと云うていた紋付羽織もとうとう買うてやらなかった。箪笥の底に納いこんであった双子の袷も質流れを格安に手にいれたもので、三十何年の間つれ添うて内儀さんに奢ってやった目ぼしいものといえばまあこの袷ぐらいなもの。これに較べてお初は欲しいというものは何んでも身につけている。――爺さんは亡くなった内儀さんが不憫でしようがない。それにひきかえ、「贅沢三昧」のお初が妙に忌々しかった。
 爺さんが袋町へ無沙汰がちになっているのは何もお初が急に忌々しくなって、これにこだわっているというのではなく、亡くなった内儀さんへの一種の狷介な心からである。爺さんが裡には若い時から苦労を共にしてきた内儀さんへの感謝に似た気もちが始終ぬくもっていて、これが死なれたあとには余計に思われるのである。それで、内儀さんへ義理を立てるような気もちから四十九日がすむまでは袋町へ足を向けない覚悟でいる。
 お位牌のある部屋で夜分など爺さんが書きものをしている傍でお針を動かしながら種は独り言のように内儀さんの思出話を初めることがある。
「お内儀さんはまあ、どうしたことか山吹町の旦那様やお坊ちゃんのことをよくは云いなさいませんでしたが、俗にいう虫が好かない、というのでございましょうねえ。山吹町の旦那様のお帰りになったあとで、よく熱をお出しになりましてねえ……」
 爺さんは筆を動かしながら聞いている。その徐かなものの云いぶりがどこやら内儀さんに似ているように思うている。内儀さんは生前山吹町の人たちをとやかく云うたことがなかったが、それも自分への気兼ねからで、種へは肚の中をかくさず話していたものとみえる。安が帰ったあとで熱を出したという程なのだから余程毛嫌いしていたのだろう。それ程内儀さんが厭がる家から何も養子をとろうというのではないし……。爺さんは筆を動かしながら独りでこう得心している。その実、内儀さんが亡くなってからこのかた、しげしげと訪ねてくる安さんの根気にまかされて爺さんは、どうせ養子を貰うなら安のところからでもいい、というような気になっていた。それが種に云われてみると、どうも、この気もちがはぐらかされてしまうのである。亡くなった人の言葉というのに何やら冒すべからざる値うちがあるように思われて、これに気圧される気もちがある。
 種はまたこんなことも云う。
「お内儀さんはよく頭が痛いといっておやすみになった時に寝言のようなことを仰言ってでしたが、それがまあ、袋町のことばかりで、つらいつらいと云いなさっては夢の中で涙をぽろぽろこぼしていなさいました」
 聞いている爺さんは内儀さんのそのつらさが汲まれて、何んとも云いようなく胸がふさがってくる。苦労をさせて可哀そうなことをした、と思う気もちの裏で、それが何かお初の所為《せい》のように思われてくる。
 これまでは影のようにひっそりとしていた種の存在が、内儀さんが亡くなってか
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