たが、実は、さっき会った友だちに妙に心を惹かれていたのである。
お詣りをすませて毘沙門を出てきたところを、「あら、お初っちゃんじゃないの」と声をかけられた。小学校の時仲好しだった遠藤琴子だとすぐに気が付いた。小石川の水道端に世帯をもってからまだ間がなく、今日は買物でこちらへ出てきたのだ、という。紅谷の二階へ上って汁粉を食べながら昔話がひと区切りつくと、琴子は仕合せな身上話を初めた。婿さんの新吉さんは五ツちがいの今年二十八で申分のない温厚な銀行員。毎日の帰宅が判で押したように五時きっかりなの。ひとりでは喫茶店へもよう入れないような内気なたち[#「たち」に傍点]なので、まして悪あそびをされる気苦労もなし、何処へ行くのにも「さあ、琴ちゃん」何をするのにも「さあ、琴ちゃん」で、あたしがいないではからきし[#「からきし」に傍点]意気地がないの。まるで、あんた、赤ん坊よ。――と、いかにも、愉しそうな話しぶりである。それに惹きいれられて、お初が琴子の新世帯をああもこうも想像していると、
「お初ちゃんはどうなの?」
ときかれた。
「ええ、あたし……」
と云うたなり、うまく返事が出てこない。それなり俯向いて黙りこんでいると、お初の髪《あたま》から履物まで素ばしこく眼を通していた琴子は、ふっと気が付いたように時計をみて、
「もう、そろそろ宅の戻る時間ですから……」
と、別れを告げた。
紅谷の前に立って琴子のうしろ姿を見送っていたお初は何やら暗い寂しい気もちになって今にも泣きたいようである。仕合せな琴子にくらべてわが身のやるせなさが思われる。どんな気苦労をしてもいいから、自分もまた琴子のように似合いの男と愉しい世帯をもってみたいものだとつくづく思った。
もの心のつく頃から母の手を離れて花川戸の親類の家で育ったお初は近所の人の世話で新橋の相模屋という肉屋の女中になったのが十六の年であった。お初がまだ赤坊の頃、お父つぁんは流行《はやり》病いで亡くなった、と母にはきかされていたが、親類のものたちの話し合うているのをきけば、朝鮮あたりへ出稼ぎに行っている様子であった。どちらにしても、お初には大して父親への執着がなく、まあ、生きていてくれたらいつかは会えるだろう、と思う位である。お初の働いていた相模屋は前々から借財がかさんでいて、その債権者の一人が馬淵猪之助であった。当時五十二歳の猪之さんは貸し金の取り立てで相模屋へ足をはこぶうちお初をみかけて、そのぼってりとした、どことなく愛嬌のある顔つきが可愛くなってきた。そこで何かのはずみに主人へこのことを話してみると大そう乗気になって、「ひとつ、面倒をみてやって下さらんか」という。主人の肚では、このお初の取りひきの成功が馬淵との貸借関係の上に何分の御利益をもたらすもの、と北叟笑んでいる。この肚を疾っくに見すかした馬淵の方では「義理人情で算盤玉ははじかれぬ」とはな[#「はな」に傍点]から決めてかかっているので顔でにやにやしていても利子の胸算用は忘れないでいる。
主人からこの話を大むらのおっ母さんへ橋渡しをすると、願ったり叶ったりの仕合せだというので、おっ母さんが何遍か相模屋へ出かけてきては馬淵と会見する。そのうち、神楽坂裏へその頃流行りの麻雀屋を持たせてもらって、大むらをやめたおっ母さんがお初と暮すようになった。
おっ母さんのかねがねの念願はお初に金持ちの旦那をとらせて小料理屋か待合でも出してもらって、ひとつ人を使う身分になって安気に暮してみたい、というのだったが、馬淵は一向にこちらの気もちを汲まず、水商売はとかく金が流され易いから、と云うて麻雀も下火にならぬうちによい値で店を譲り、今の小間物店を出してくれたのだった。おっ母さんにはこれが不服でならないけれど、面と向って文句を云う訳にもいかない。しょうことなしに蔭で、お初へ爺さんの悪口をきかせるのがせめてもの腹いせであった。
金魚の鉢を眺めているお初の眼にはしらずしらずに涙のわいてくることがある。狭い鉢の中を窮屈そうに泳いでいる金魚が何やら自分のように思えてくるのだ。秋風が立ち初める頃尾鰭の長い方が死んでから残った一匹もめっきり元気がなくなって、この節では硝子に円い口をつけたままじっとしていることが多い。
広い世間を肩身狭く、窮屈に渡らなければならない自分が、お初はみじめでならない。馬淵の内儀さんが亡くなって、そのあとへ自分がなおったとしても世間の人たちは妾の成り上りとしか思わないだろう。爺さんの内儀さんになってもそんな思いをする位なのだから、まして今の暮しが肩身の狭いのも無理がない。お初はどっちへ向いても窮屈な自分を考える。どうせ、この世を狭く窮屈に渡らなければならないのなら、呑気な今の妾ぐらしの方が気が安い、と思ったりした。
今日は魚辰へたのん
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