そんなにお爺ちゃんのことが気になるならおっ母さんがお内儀さんになればいいじゃないの」
 こう云ってお初は耳根を真っ赤にして、袂を絞りながら二階へ駆け上っていく。
「まあ、何んてことをいうの。この娘《こ》は……」
 おっ母さんは銅壺の廻りを拭き止めて、呆れたように梯子段を見あげている。やがく俯向いて銅壺のあたりをゆるゆると拭いていたが、人差指に巻きつけていた浅黄の茶布巾を猫板の上へおいて、襦袢の袖口をひき出して徐かに眼を拭いた。
 お初ひとりを楽しみにこれまで苦労をしのんできたおっ母さんには、これからの好い目[#「好い目」に傍点]」が当然のことのように思われているのに、お初は一向にこの心を汲まずおっ母さんの仕合せなぞどうでもいい、と思うている。女親の手ひとつで育てあげられたその恩を、あの娘は全で古元結か何んぞのように捨てている。――おっ母さんにはお初の今の言い草が恨めしくてならない。赤い眼をあげて梯子段を眺めては、また袖口をあてて泣いている。
 亡くなった内儀さんの百ヶ日がきた。
 朝、爺さんは袋町へ寄って墓詣りにお初をもつれ出した。郷里にある本家の墓の世話になるのを嫌って、爺さんはこんど雑司ヶ谷へ新らしく墓をたてたのだ。雪もよいの寒む風が頬に痛いようである。森閑とした墓地径を二人は黙って歩いている。爺さんは時折り咳をする。マスクを口の方へ下して洟をかむ。ラッコの衿を立てて、白足袋の足を小刻みにせかせかと歩いている。お初は藤紫のショールの端で軽く鼻のあたりを覆うて、小菊の束を抱えて爺さんに跟いていく。枯枝に停っていた一羽の雀が白いふん[#「ふん」に傍点]をたれながら高く右手の卒塔婆の上へ飛んだ。
 墓の前へ出た。爺さんは二重廻しと帽子をお初へ持たせておいて紋付の羽織を背中の方まで端しょって墓の前へしゃがんだ。この前供えておいたお花が霜枯れして花活けの竹筒に凍てついてしまって仲々とれない。ようやくのことで爺さんはお初の持ってきた小菊を活け終わると、マスクを鼻の方へあげてお念仏を唱えながら永い間手を合せている。爺さんが拝んでいる間、お初はさっきの雀がどうなったかしら、と頸をかしげて卒塔婆の方をみている。風に胸毛を白く割られた雀は卒塔婆のてっぺんに停って、きょとん[#「きょとん」に傍点]としている。
 お詣りがすんで、墓地の小径をひきかえしながらお初が、
「ねえ、父うさん」
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