るのは何もお初が急に忌々しくなって、これにこだわっているというのではなく、亡くなった内儀さんへの一種の狷介な心からである。爺さんが裡には若い時から苦労を共にしてきた内儀さんへの感謝に似た気もちが始終ぬくもっていて、これが死なれたあとには余計に思われるのである。それで、内儀さんへ義理を立てるような気もちから四十九日がすむまでは袋町へ足を向けない覚悟でいる。
お位牌のある部屋で夜分など爺さんが書きものをしている傍でお針を動かしながら種は独り言のように内儀さんの思出話を初めることがある。
「お内儀さんはまあ、どうしたことか山吹町の旦那様やお坊ちゃんのことをよくは云いなさいませんでしたが、俗にいう虫が好かない、というのでございましょうねえ。山吹町の旦那様のお帰りになったあとで、よく熱をお出しになりましてねえ……」
爺さんは筆を動かしながら聞いている。その徐かなものの云いぶりがどこやら内儀さんに似ているように思うている。内儀さんは生前山吹町の人たちをとやかく云うたことがなかったが、それも自分への気兼ねからで、種へは肚の中をかくさず話していたものとみえる。安が帰ったあとで熱を出したという程なのだから余程毛嫌いしていたのだろう。それ程内儀さんが厭がる家から何も養子をとろうというのではないし……。爺さんは筆を動かしながら独りでこう得心している。その実、内儀さんが亡くなってからこのかた、しげしげと訪ねてくる安さんの根気にまかされて爺さんは、どうせ養子を貰うなら安のところからでもいい、というような気になっていた。それが種に云われてみると、どうも、この気もちがはぐらかされてしまうのである。亡くなった人の言葉というのに何やら冒すべからざる値うちがあるように思われて、これに気圧される気もちがある。
種はまたこんなことも云う。
「お内儀さんはよく頭が痛いといっておやすみになった時に寝言のようなことを仰言ってでしたが、それがまあ、袋町のことばかりで、つらいつらいと云いなさっては夢の中で涙をぽろぽろこぼしていなさいました」
聞いている爺さんは内儀さんのそのつらさが汲まれて、何んとも云いようなく胸がふさがってくる。苦労をさせて可哀そうなことをした、と思う気もちの裏で、それが何かお初の所為《せい》のように思われてくる。
これまでは影のようにひっそりとしていた種の存在が、内儀さんが亡くなってか
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