太郎を医術のみちへ進ませるということは唐沢氏にとっては相当の決断力を必要とすることだった。けれど、唐沢氏自身よりも当の慶太郎がこの話に大乗気になって、高等学校の受験科目は勝手に理科乙を選び、大学も医科へ進んでしまった。元から手先きのことは器用だったし、七つ八つの頃から昆虫の採集に熱中するような子供だったので、唐沢氏も諦めてしまったのか女婿の横尾氏を起用することになった。
 慶太郎をあてがわれた夫人は、良人のあそびが左程こたえなくなった。学校の休暇を利用して、母子のものはよくつれ立って温泉めぐりをする。温い片瀬の別荘でひと冬を過すこともある。元来、母親贔屓の慶太郎は、医学生らしい細かい心くばりをして、母を病人とよりは、子供のようにして世話をやく。冷えこみで小用の近い母が夜分厠へ起きるたびに肩をかしてやり、自分も序に用を足しておく。それがくせになって、この頃では、母が起きないですむ晩でも、自分だけ眼が覚めて用を足しに行く。家にいる時も、母の体だけは人手にまかされぬ気がして、夜中に何度も二階の自分の部屋から覗きに降りて見る。そして、切角熟睡している母を無理に起して、厠へ同行を強いたりした。
 母子のものが留守がちなので、その家事を托する人が必要になって、夫人の遠縁からおつねさんという中年増の後家さんを招んだことがあった。お針達者な上に炊事のことも仲々行き届いていて、家人はおつねさんを重宝がるのだった。
 五、六年前のことだった。夏休みを利用して片瀬の別荘へ行っていた母子のものが、予定よりも二、三日早目に家へ戻ると、稀らしく大玄関に唐沢氏の靴が脱いである。夜分は家に居ることのなかったこの頃の唐沢氏だったので、夫人は意外な感じにうたれた。ひとつには、いつも走り出迎えてくれる女中たちやおつねさんの姿の見えないことだった。慶太郎が、「おい、おい」と呼ばわりながら女中部屋から座敷の方まで見て歩いた。離れの方で物音がして、おつねさんが出てきた。
「お帰りあそばせ」
 丁寧にこうお辞儀をするその櫛目のはいったばかりの頭髪《あたま》へ夫人の眼がいった。その眼が徐かに離れの方を見やった。唐沢氏が半身を現して、
「丁度よいとこへ帰った。おつねさんに茶を所望しとるところでね」
 遽しい声音だった。夫人が黙っていると、追いすがるような手ぶりをして、
「どうだ、お前たちも一服馳走にならんかね」
 笑顔で誘いかけた。
「素人はあとがうるさいことになるから真っ平だ」
 と云い慣れていた唐沢氏が、その建前を崩して素人へ関りをつけている。金で自由になるという玄人の世界を縁遠いものに考えて、これまで妬情を諦めていた夫人は、おつねさんを前にして不意に胸の疼くような嫉妬を感じた。
「女中たちは?」
 不思議に声だけは、いつもの穏やかさで尋ねられた。
「はい、旦那様のおいいつけで、活動をみせに出しました」
 おつねさんは伏眼になったまま応えた。
「お仕度をして、あなたも見物においでなさい」
 云いのこして夫人は青白んだ顔をひきしめ、利かない片足を曳いて徐かに離れへ行った。――
 忘れていたその時の妬情が、今、老夫人の裡に頭をもたげてくるのである。おつねさんへ抱いたと同じ感情が、おしもへ向っていく。ただ、あの時に較べて今の方が爆ぜるような気力でおしもを視ているのが、自分ながら不思議なことであった。

     四

 十一月もまだ初旬だというのに、この朝夕は肌身を刺すような寒気がつづいて、葉を落した背戸の柿の木には、朱く熟れた実がうっすらと霜をかぶって四つ五つ、寒む風にゆれている。
 茶の間にはもう掘炬燵がしつらえられて、老夫人は此処を自分の居場所と決めて痛む脚を温めている。
「こんなに寒くなっては体にこたえるだろうな。どうだ、名医をつれて暫く片瀬へ行ってみたら……」
 炬燵を離れぬ夫人を見かねてか、唐沢氏はいつもの優しい口調でこんな風に勧めるのだった。その言葉を今の夫人は以前のように素直な心で受け取ることが出来ない。良人とおしもを残しては家をあけられぬ、と警戒する気もするからであった。朝、外出の仕度をさせるのに、おしもをわざわざ奥の居間へ呼ぶのも巫山戯《ふざけ》るためかと疑い、夜分、寝室で頭を揉ませているのさえ不安な思いで、時折りお春を覗かせにやる。そんな自分の思いまわしを不快に思いながらも悪い想像に心が蝕ばまれていくのをどうすることも出来ない。そして、いつに変らぬニコニコ顔のおしもを見ていると、挑みかけられているような気がしてきて身内がかっかっと熱し、ふと、自分もまた小娘の感情に還って剥き出しに挑みかけているのに気付く。そんな時には、いっ時、足の痛みも忘れられ、不思議に健康感がきて、久しぶりに炬燵を離れ、杖にたよって庭を歩いてみたりする。まるで、激しい妬情が病み窶れた夫人の肉体を蘇らせていくようなものである。こんなことが続いて、老夫人は少しずつ活気をとりもどしてきた。勝手口へ下りて、自分から御用聞きへ註文を云うたり、家の内を見廻って掃除の不行届な点を注意する。これまでの仕来りから夫人の身のまわりのことはおしもが勤めることになっているので日に何度となく顔を合せる。こんな子供っぽい顔をしているくせに、よくも悪さが出来るものだ、と憎らしく思う。恩を仇で返すような女だと思う。そう思うたびに、老夫人は気力の弾みを感じる。これが、妙に愉しいので、おしもを見てはひとりでに昂奮するようになる。妬情をかきたててみる。そして、愛情で繋っていた以前よりも、今は、憎悪と妬情からおしもの存在と離れがたいものになってくる。
 或る夜のこと、老夫婦が炬燵に温りながらラジオの長唄を聴いているところへ慶太郎が降りてきて、
「今夜はお揃いだから、久しぶりで麻雀でもしましょうか」
 と誘いかけた。
 唐沢氏も乗気になって、早速おしもを呼んで仕度をさせた。炬燵を離れては夫人がつらかろう、と劬わって、麻雀卓を櫓の上へのせるようにと指し図をするのである。やがて、仕度が整うと、座席が定められた。唐沢氏の右隣りがおしも、それから夫人に慶太郎という順である。おしもはいつものニコニコした顔で牌を取り、忘れたり順序を間違えたりする。そのたびに、唐沢氏は大笑いして、代って牌を取ってやったり眼くばせで順を教えたりする。それを見ている慶太郎は、物好きな眼つきでちょいちょいと老夫人の方を見やる。母にそれを知らせてやりたい悪戯っぽい心からである。老夫人には、その息子の眼ざしが気になった。あのことあって以来、慶太郎のおしもを見る眼ざしが変ってきていると気付く。これまで女中としてしか見ていなかったその眼が、急に、女としてのおしもを興味深く眺めてきたとも思われる。この頃、用もないのに慶太郎が女中部屋をのぞきこんで、おしもを揶揄っているのを見かけることがある。おしもの方でも、そんなことが嬉しいらしく、きゃっきゃっと声を立てて笑いこけている。そんな時には、唐沢氏を警戒する心が同時に慶太郎へも向けられて、眼ばなしのならぬ思いをする。今では慶太郎を唯ひとつの希望にして生き甲斐を感じてきた老夫人は、それだけに、慶太郎の裡に良人を見た時には動揺した。若しかしたら、慶太郎は自分と結ばれているよりは、より根深く良人と結ばれていはしないか。そんな気がしきりにする。そして、この父子をおしもにまかせては寸時も家を開けられぬ、と用心する。良人や息子を女中にまかせて安気に外出の出来る主婦は世に何人いるだろうか、とそのことにも夫人の思いは及ぶのだった。
 唐沢氏の座席からは少し頸をのばせばおしもの並べた牌がひと目で眺められる。おしもに必要な牌を唐沢氏が心して投げてやっている。老夫人は、そのことに先刻から気がついていた。その唐沢氏のおかげで、おしもは二度も上っている。
 慶太郎はそのたびに眼を円くして、
「今夜はおしもの当りだね。奢れ奢れ」
 と巫山戯かかった。
「あらいやでございますよ。お坊ちゃまは」
 おしもは大仰さに手を振って、きゃっきゃっと笑いこけた。
「ほら、また、お坊ちゃまが出た」
 慶太郎が威かすつもりの大声をあげると、腹をかかえて笑っていた唐沢氏が慶太郎を突っついて、
「お坊ちゃまの番だよ」
 と教えた。
 普段は、「慶太郎様」と呼びなれているのに、こうしたくだけた座ではきっとこの「お坊ちゃま」が出る。まるで、おどけ[#「おどけ」に傍点]にわざと出すようなものである。夫人にはそれが不愉快だったけれど、唐沢氏や慶太郎には耐らなく愛嬌にきこえるらしかった。
「北風」の時、夫人の手は稀らしく上首尾で、二萬一枚を待って上りである。夫人はその一枚を心おどらせて待った。二度も上ったおしもへ挑みかけるような気もちである。その待ちかねていた二萬を唐沢氏が捨てた。
「※[#「石+(朔のへん−屮)/(墟のつくり−虍)」、第3水準1−89−8]《ポン》」
 と叫んで手を出しかけた時、横からおしもの手がのびて牌を抑えた。
「おしもの方が先きだね」
 唐沢氏が云った。
「おしもの方が早かったよ」
 そして、牌をおしもの方へ押しやった。不意に老夫人が座を立った。
「あんまりです」
 云うたかと思うと、嗚咽をあげながら不自由な足を曳きずって部屋を走り出た。
「お母さん、どうしたんです、お母さん」
 慶太郎が追うた。
 老夫人は足袋はだしのまま庭へ下りたところであった。

     五

 そんなことが慶太郎から横尾の方へも洩れて、おしもの縁談が急に捗ってきた。面倒なことにならぬうちに、と園子は独りで気を揉むのである。毎日、園子からその話をきかされる横尾氏も、つい、おしものことが心にかかって、出社をしていても、それとなく独身の社員を探すようになる。木村康男といって、本年二十八歳、商業出の俸給六十円、会計課勤務の男と、もうひとり、永年この社の小使いをしている安藤久七という四十男、先年女房に死なれたのでその後釜を欲しがっているという。横尾氏はこの二人を候補者に内定しておいて、万端は園子へまかせてしまった。
 今日も、電話口へ呼び出された老夫人は、園子に返辞を強いられて、
「まだ、お父さまへもよく御相談をしてみませんからねえ、あすにでもなったら判っきりした返辞が出来ましょうから……」
 と云い渋った。
 園子の考えでは若い木村康男へおしもを嫁がせたいのである。老夫人にしても同じことだった。ただ、どういうわけか唐沢氏がそれを渋るのである。
 その夜、いつものように炬燵で寛いだ折りに、老夫人は、
「園子から今日も電話がございましてね」
 と切り出した。
 夕刊に読みふけっている容子の唐沢氏は、
「ああ」
 と応えて、遽しく頁をめくった。新聞に顔が隠れていて見えないけれど、不興気な表情がよく分るのである。先夜のことがあってからの唐沢氏は真正面に夫人と顔を合せることを避けている容子で、こうして向いあって坐っていても新聞を読むか、書見に時を過すか、眼をつむってラジオの小唄などに聞きとれている場合が多い。そんな時の老夫人は何か手持ち無沙汰で、居たたまれぬ気がした。今も、気のない返辞に話の穂を折られて困っていると、
「おしものことなら、そちらへまかせたはずだが……」
 新聞から眼を離さずに云った。
「それでも、このことだけは御相談申しあげませんと……」
 夫人は、木村康男と安藤久七をもち出した。そして、分が違うだろうけれど、木村がおしもを娶ってくれるなら、こんな仕合せなことはない、と自分の気もちを徐かに語った。
 新聞の囲いの中でそれを聴いていた唐沢氏は、ちょっと考えている模様だったが、
「木村は過ぎる。安藤の方がよかろう」
 押しつけるような声音だった。
「でも、年齢《とし》が大へんに違いますし、おしもが……」
 それを云わせず、唐沢氏は、
「女中には小使いが相応だろう」
 忙しく新聞を置いて、眼鏡をとりながら座を立った。
 他にわけがあるにせよ、良人が安藤を推したのは、意外なことであった。おしもへはあれほど深い関りをもっている良人が、たとえ、おしもを手離すことで不快な思いをしているに
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