るもの、奥様のお下りのラッコの毛で縁どったショールが納まってあった。これは舶来物の飛切品だと奥様は今も惜んでいる。しかし、紺屋の婆様の鑑定によると、ラッコとは真っ赤な嘘で、兎の毛をうまく染めたものだという。虫のせいか、あちこちボッコリと毟り取ったように毛が抜けて、見るかげもなかった。
 毎度、虫干しの季節になると、ぎんはこの三畳間に細引を張って、持物に風を通すことを忘れなかった。そんなとき、紺屋の誰かが格子窓から覗くと、ぎんは一つ一つに勿体をつけて自慢した。店の娘たちが汗になってミシンにしがみついているところへ、出しぬけにラッコのショールで現われて、みんなの度胆を抜いたりした。
 この小部屋いっぱいに床をしいて、身を横たえたいっときは、ぎんにとってはまったく極楽の有難さである。胸に手を組み、奥様口ぐせの念仏を聞きおぼえに唱えながら、いつのまにか快い眠りに誘われる。夜中にむっくりと起き出して、暗がりをきょろきょろ見まわすことがよくあった。夢だったのかと、うっとりとした心地で、やがてまた、しずかな眠りに入る。
 まったく不思議な話だが、長い年月、ぎんにはきまってみる一つの夢があった。広い立派な西洋間である。壁には大きな額がかかっている。綺麗な飾り椅子があちこちに置いてある。高い大きな窓がいくつもいくつもあって、それにはみんな真っ白いレースのカーテンがかかっている。小模様の織目の細かい上等品である。ふんわりと揺れはためく。裳裾の房がパタパタと鳴る。揺れるカーテンにコスモスの花が咲いている。淡紅い今にも消えそうな花が、白い花むらの中にぽつぽつと咲いている。背中の赤ん坊がなかなか泣きやまない。まあるいおしりが下って、おぶい紐が肩に食いこんで、重ったるい。あやしながらコスモスの花の中を歩いて行く。
 行っても行っても花ばかりである。花の波がゆったりゆったりと揺れる。真っ白いところに淡紅いぽつぽつのあるコスモス模様のカーテンである。裳裾の房がパタパタと鳴る。すると、カーテンはふんわりと揺れはためく。
 夢の中の西洋間は、雑誌の口絵で見かけたことのあるえらい方のお邸のようでもあるし、工場にいたころ友だちに誘われて見た活動写真の中の場面のようでもある。その活動では背の高い素敵な西洋美人が伯爵の恋人と囁きかわすところがあったり、馬に乗って散歩するところがあったりして、今でも思い出すたんびにぎんは悩ましくって溜息が出る。そんなとき、無性に、寺島捨吉が慕わしかった。
 ぎんがこの小間物行商人と馴れ染めたのはレース工場にいたときのことである。大阪にあるその工場の女工になったのは十八の齢であった。北秋田の潟に近い小さな町でぎんは生れた。父親は町役場の小使をつとめ、母親は水汲み下女だった。ぎんは小学校を中途でやめさせられて校長先生の家へ子守りにやられた。
 校長先生には「赤髭コ」という諢名がついていた。寒中でも真っ裸になって井戸端で水をかぶる人だった。赤ん坊をおぶったぎんが学校へ遊びに行くと、子供たちが寄ってきて、こんな悪口を云うのだった。
「お前《めえ》とこの赤髭コな、けさ、髭コの先さタロッペ(つらら)下げてきたど。」
 そして「赤髭コ、赤髭コ、髭コのタロッペ塩辛《しょっぺえ》ってな。」とはやしたて、雪の中をどこまでも追いかけてくるのだった。
 夏になると校長先生の庭にはいろいろな花が咲いた。おいらん草だの百日草だの雛菊だのが咲き盛るのだった。校長先生は越中に腹巻といういでたちで、暇さえあれば草花の手入だった。コスモスの花時になると、子供等が垣根に背伸びして、よくとりにきた。先生自慢の輪の大きなコスモスだった。それが垣根のぐるりにゆさゆさ揺れていた。子供の頭がかくれてしまうほど背の高いコスモスだった。
 父親の都合でぎんは校長先生の所から暇をもらい、酒屋の小女中にやられた。町に「ガラ八の内儀《じゃっちゃ》」という看護婦や女工や女中などの口入れを商売にしている寡婦がいた。十六の春、ぎんは近在の娘たちといっしょにこの「内儀《じゃっちゃ》」に連れられて大阪へ出た。紡績の女工になった。同じ町から出てきた友だちに誘われるまま一年半ばかりの後、レースの工場へかわった。そこで十二年あまり働いた。
 大正の初め創業したこの工場は、当時輸入した二台の機械でどうやら覚束ない歩みをつづけてきたが、次第に活況を呈して、ぎんが退くころは工場の建て増しをしている最中だった。普通、服地とか袖口とか裾よけとかになるレース地は、絹物、ジョーゼット、木綿、人絹などいろいろあって、機械にかける前、十ヤールに縫合せる。機械済みのを仕上げのミシン場へまわして、あとは晒しに出す。ぎんは入りたてミシン場で働いた。それから機械場へまわされた。一台に二人、裏と表につくのである。糸の切れ、針の折れを視て歩
前へ 次へ
全7ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
矢田 津世子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング