頃、工場には女工たちのために三棟の寄宿舎が出来ていた。外出しにくいので、しぜん行商人が入り込む。捨吉は小間物類一切から下駄草履のようなものまでつづらに詰めては商いに来る。色の浅黒い三白眼の、ちょっと小粋なところのある男だった。広島弁で面白いことを云っては笑わせる。自転車につづらをつけた捨吉の姿が通りに見え出すと、女工たちは窓から乗り出したり手を振ったりしてキイキイ声を張り上げる。なかなかの人気だった。
この捨吉が、ぎんへはこっそりと並ならぬ優しさを見せるのである。毛ピンやネットのようなものを負けてくれたりハイカラな文化草履を卸値で分けてくれたりする。ぎんの手足を綺麗だとほめて顔が火照るほど嬉しがらせたりした。
或る日、非番でぎんが寝転んでいるところへ、つづらの捨吉が入って来た。部屋の者が出はらっているのを見て、あんたにだけ聞いてもらいたい話がある、と声を低めて、身の上話をはじめた。自分ほど不幸な男はいない、子供の頃ふた親に死別して、因業な伯父夫婦にこき使われた。女房運が悪くって、最初のには逃げられるし、二度目はそり[#「そり」に傍点]が合わなくて別れるし、三度目のにはつい先達て死なれてしまったと、眼をうるませ、おろおろ話した。孤児同様な我が身にひきくらべて、ぎんは貰い泣きした。男の唐突な涙もろさ、おろおろした気弱さに、心が動かされるのだった。
そんなことがあってから、ぎんは、つづらの捨吉を特別な優しさでみるようになった。そして休日にはどきどきして媾曳の場所へ急ぐのだった。人出のない郊外へ、男は出たがった。逢うといつもおろおろ声で「僕ほど不幸な男はいない。」と愬え、ぎんを当惑させた。男の涙もろさや気弱さは、ぎんにとっては愛情の誓いになった。
夜に入ってぎんが帰りを気にし出すと、男はびっくりするような剣幕で引き止めた。暗い畑道を歩きながら男に手をまかせ、ぎんは不安と臆病さからしょっちゅうどきどきしていた。その臆病さが身を守って、あやまちもなかった。男は、堅人だと云ってからかった。女のそうした身の堅さに却って掻き立てられ、いよいよ執心した。
工場の中でも評判になって居たたまれず、ぎんは捨吉と港寄りの小林町に家をもつことになった。一人者だときいていたのに、暮してみると男には子供があった。三度目のおかみさんの子だったが、死別したはずのそのおかみさんもしゃんしゃんして
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