れこれと取り沙汰しているようであるが、師匠は或る信条からこの独りの身を戌り通しているともきいていた。わたくしにとっては亡父の郷友にあたるところから、池ノ端数寄屋町のそのすまいへは、亡父生前よく供をして訪ねたものであった。
座業の人に猫背がに[#「がに」に傍点]股というのをよく見かけるけれども、師匠にはその気すらみえない、痩せて小柄な体躯をいつも端然と持して、長い仕事中にもそれを崩すということがない。立居のおだやかな寡黙な質で、にこやかな面《おも》だちは親しみ易いが、折おり妙に気詰りな思いがして座をはずしたくなる。何か念を凝らしていられる時には余計にこの思いがきて、その眼を見上げるさえ気後れなときがある。老齢とは言いじょう師匠の面にはその翳さえみえず、その眼に籠っているものが年どし青春《わかさ》を加えているように見える。けれども、短く刈りこんだ頭髪《つむり》はもう大分霜に覆われていて、うしろから眺める背のあたりにふっと老いの佗しさを見かけるときがある。痩せて崩さぬその後ろ背に支えてきた気骨ともいうべきものが素直にみえているだけに、そのうしろ姿の老いは一そう胸に来る。
加福の師匠は郷里に在る頃、山中の禅寺に籠ったことがあるときいていたが、朝毎、枠台を前に端座して黙然としていられるのは、そのころからの慣わしらしい。枠にとりかかると、誰れにも会わぬ仕来りであった。
こんなことがあった。
父の供をしていつかも師匠宅を訪ねると玄関の間には既に先客があって、急ぎの用事か頻りに取り次ぎ方を門弟に頼みこんでいた。永年のことで、わたくしたちは断りなしに、いつもの茶の間に通った。次の六畳ふた間が仕事部屋にあてられてある。師匠は、小庭に面したいつもの位置に少しばかり上体を俯向けて端座して、深廂のぬるい光線をうけて枠ばりの琥珀か何かに針をとおしていられた。玄関の間の先客は襖かげから顔をさし出しては急き立てる。枠にかかっている間、人に会わぬその慣わしを心得ているゆえ門弟たちはこの忙《せわ》しない客をもてあましきっているふうだったが、またも急き立てられると渋りながらも、ひとりが告げに立った。師匠はしずかに針を通していられる。尚ふた言三言かけて、下りかけると師匠が呼び止めた。不足している分の色糸を持って来るようにとのためであった。
こんなこともあった。
師匠宅で帯安の番頭と行きあわせたことがある。京都に本店をもつこの大|店《だな》の帯安では余程以前から師匠を口説きおとすのに骨折っているようであった。この帯安のほかに袋物専門の鈴仙商店と京橋の老舗玉井屋あたりの番頭なども根気よく未だに通いつめているようである。併し、師匠は、いわゆる「お店《たな》物」仕事をこれまで引き受けた例しがなかった。「お店物」で制限をつけられてしまうと針がまるで利かなくなってしまうと言われる。この時も、帯安の番頭のひっきりなしの京訛りに耳を藉しながら師匠は徐かに茶を啜って居られた。いつまでも茶碗を口から離さずにいるのは、この番頭の饒舌に相槌をうつことさえ避けていられるようにみえる。お喋りがちょっと途絶えたところで師匠は茶碗をおいて、
「折角ですが……」と言った。なお執拗に番頭は続けたが、師匠はこの言葉をくりかえしているだけであった。
当節は刺繍する者も柄がおちて、自分から店《たな》に出かけていって仕事を頼みこむという風だが、これでは好んで技を堕すというものだ、と師匠は折にふれてこう歎かれる。技を売ることにばかり切で、技を磨くことに念を凝らすひとが稀になった、と歎かれるのである。むかしは齢六十にして尚ひとの徒弟として技を練ることを道と教えられていたが、当今は年季もまだ明けないうちからもう店《たな》出入りのことを考えている。世智辛い世のゆえとは言い条、このような人たちの世に送り出されるのは怖ろしいことだ、粗笨《そほん》な仕事と誰れの眼にも分っていながらも、これがこの節繍の域内を大手振って歩いているのは怖ろしいことだ、と歎かれるのである。
師匠の口から賞め言葉をきくことは滅多になかった。ずっと以前、弘前から繍の道を修めに出京した相馬という人の仕事を稀らしく師匠は賞めたことがあった。この相馬氏も軈て立派に一家をなして業界に重きをなす人となったが、惜しいことに先年病歿されてしまった。業界では「賞めない人」として加福の師匠は通っているし、その烈しいまでの潔癖な眼識を「旋毛曲り」としてみていた。ひとつには、その潔癖さが己れの技へ向ける厳しさとなり、「お店物」を撥じき切る頑なさとなり、なおまた、独りの清貧を守り通してきたそのことにも通じているとみえる。その頑なさ、その片意地な程の潔癖さを世間の眼は「旋毛曲り」とみていた。
師匠のその潔癖さは、そのまま徒弟を孚《はぐく》むうえでの鞭ともなり
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