をはこんでいる采女たちの姿が浮んでくる。亡き太子の御遺徳をしのびまつり、ただ一途な思慕と信仰のその念いばかりが繍帳に籠っているとみえた。
 先生の語るところに深くこころ動かされてわたくしは、せめて上野の博物館へいって話しにきいていた「無量寿経」をなり見たいものと或る朝ふと思い立った。この経文一巻は文字を刺繍とし浄土のさまを口絵に描いて極彩色を施したものだときいている。「天寿国曼荼羅」に倣って後世仏像経巻等を繍することが行われ技のほうも次第に巧妙となったということは想像に難くないが、現存のものでは右の経文の他に山科勧修寺の繍仏、近江宝厳寺蔵の国宝「刺繍普賢十羅刹女図」の額、「弥陀三尊来迎図」の額など精巧のわざを示したものときいている。なお最近読んだ書物の中に「菅原直之助、独習をもって刺繍に長じたる人にして狩野芳崖の『悲母観音』の繍は原画の傑出せると共に有名なり」とあるけれども、これが何処に蔵されているかは明らかにされて居ない。
 省線をうぐいすだにで降りて、徳川御霊屋の塀に沿うて樹木の鬱蒼と覆いかぶさっている径を博物館へと取った。暦のうえではもう秋立つ日も疾うにすぎているけれども、暑さはいよいよ加わって木の間を洩れる陽射しにも背《せな》をやかれるよう、人どおりのまったく絶えたこの径には蝉しぐれが降りしきって聾するばかりのかしましさのゆえか辺りの寂けさがひとしお澄んで感じとられる。蝉取りの子供たちに行き会うただけであった。
 博物館の門前に辿りついてわたくしは躊躇し訝った。砂利はこびの人夫たちの出入りがしげくて辺りの様子がなにかざわついている。門衛のはなしに、このほど新館が落成したので今は陳列品をそちらへ移しかえるため休館になっているということであった。
「十一月迄の御辛抱ですな。その代り今度は立派なところで御覧になれます。ほれ、あそこにみえるのが……」
 老門衛は番所を出てきて眼を皺めて、指先きに挟んだチビた莨で樹間の白い巨大な建物をさした。
「天寿国繍帳」の造製に与かった絵師たちは推古天皇の十二年帰化画師保護のため定められた黄書画師《きぶみのえし》ならびに山背画師に属する人びととしてものの本にみえている。末賢は大和に住し東漢《やまとのあや》に属した帰化漢人であり、奴加己利も亦、そして加西溢は帰化高勾麗人であった。それゆえ我国最初のこの繍帳には支那高勾麗両系の絵があらわされているわけである。刺繍芸術には、その後、次第に日本人独特の趣が加えられて戦国時代には兵具にさえ繍をほどこすようになり、元禄の頃に至って最も洗練され、徳川時代にはこの繍の多少によって武家の格式の高下をはかるというまでに用いられた。
 西洋のほうでもまた旧約書にアーロンの帯が紅青紫の刺繍された美しい麻布であったとみえているから、ずいぶんと早くからその技に熟していたようである。のちにはアングロサクソン寺院の僧衣が見事に繍されたとも伝わっている。「マティルド女王の壁掛」とは、よく耳にするけれど、これはローマネスク時代の遺品中最も珍奇なものとして今日仏蘭西ノルマンディのバイユー・カテドラルに蔵されているときく。ノルマンディ公ウイリヤムの英吉利征服に材を取りマティルド女王の手工として、また十一世紀末の華麗な繍織として遺っていると聞いているが、「これ迄の織物や刺繍はすべて東方から供給されしものにしてこの時代に至って毛織に刺繍せる美しき工作ヨーロッパに於ても初められたり」と古い美術雑誌などにも記されてあるから、西方諸国の繍におけるその技の発達は疾くから東方に負うところがあったとみられる。
 わたくしは樹蔭を足にまかせて歩きながら急に背の汗をおぼえた。東照宮をすぎて樹枝の小暗いまでに繁りあった径をおりて、池の端に出た。見渡すかぎりの蓮であった。葉と葉が重なりあうほどに混んでいて繁茂しているというにふさわしく、白と淡紅の大輪の花がみえかくれしていた。縁に近く、ちょうど蓮の葉でかこいをされたぐあいの一坪ばかりの水の面《も》には、背に色彩りあざやかな紋のある水鳥が游いでいた。うちつれて赤い小さな水掻きをうごかしながらその狭いかこいの中を円を描くようなふうに游いでゆく。陽に煌めく水面にはささやかな波紋が立って放射型のゆるい水線が尾をひいて行く。なんともいえず和んだ心地がして、わたくしは、しばらくそれに見とれていた。
 加福の師匠は繍の名家としてまた「旋毛《つむじ》曲り」として業界から折り紙をつけられている。師匠という呼び名も、わたくしは弟子たちの口馴染みを真似ているわけだが、たとえば、師匠と呼ぶ代りにこの老人を先生とか加福さんとか呼んでみても、一向に馴染んでこない。やはり、この老人には加福の師匠がいっとう似つかわしかった。
 世間では、本卦返りのこの齢まで通してきた師匠の独りぐらしをあ
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