も美術学院刺繍科講師、刺繍組合理事の肩書に似合わしいけれども、その生活は、このりゅう[#「りゅう」に傍点]とした構えほどでもなく、噂にきくと、伝通院近くの、まだ路地奥住いで、帯安あたりの店《たな》仕事に精を出しては、どうやら凌げるほどだということであった。その帯安の番頭の娘を娶っているときいているが、若年にかかわらずその処世の才は業界でも目ぼしいもので、この葛岡氏なら、刺繍塾の経営の才腕も相当であろうと、わたくしには肯けた。
 銀三は手まめに茶を注ぎまわり菓子を勧める。葛岡氏が厠へ立つのにも跟いて行って、手水をかけてやったりする。
 話しが、いつか、故人のことになった。
 今は額になって師匠のうしろにかかっている鷹の刺繍を、弟子たちは口々に賞め讃えた。師匠も振り返って、しみじみと眺められた。
「尾久へ行ってから葉書を寄越してくれたことがあったが、……どうも、段々出ぎらいになったらしい」
 師匠は、いつもの静かな声で、こう言われた。そして、眼鏡の具合をなおして、また、額に視入った。
「いつだったか、……そうそう、この春のお彼岸のお中日の日でしたよ。お宅で、おはぎ[#「おはぎ」に傍点]を御馳走になったのを覚えていますから」
 と、俊男が葛岡氏へ遠慮深く斯う前おきをして話し出した。「お宅へ届け物がすんで、あそこの路地を出たところで寿女さんに会ったんです。あんまり偶然だったもんですから、僕はホウって大きな声を出してしまったんです。寿女さんは、せかせかしてすぐに逃げそうにしたんで、僕は、どうしたんですか、って追っかけたんですが、そこまで用達にきたとか何んとか言って、寿女さんはとっとと行ってしまいました。あんなに小っちゃくっても、歩くの随分疾いんですね。せむしの早足っていうけど……」
 と、言いかけて口を噤んだ。彦松が笑いかけて、併し、見廻わして直ぐに抑えた。
「わたしも、伝通院の前通りで見かけたことがありましたがね」
 と、葛岡氏が言った。「去年の暮でしたかね。家内が、どうもそうじゃないか、って言うもんですからね。いや、家内には聞かせてあったんです。それが、声をかけようにも、どうにも、隠れてしまったもんで……」
 葛岡氏は笑《え》みを湛えた。「元々、人みしりをするようなたち[#「たち」に傍点]でしたからねえ。それにしても、寿女さん、あの辺に知り合いでもあったんでしょうかねえ」
 師匠も銀三も黙している。
 いっ時、みんなは、黙していた。
 葛岡氏は、銀三があたらしく淹れた茶を啜りすすり、話をそらした。
「昨日、蓼川家の売り立てがありましてね。わたしも、いつもと違って早くから出かけてみましたが、流石は蓼川家で、それは豪華なものでしたよ。殊に、お師匠さんの『山茶図』はカタログに出ていただけで、わたし共はもう喉から手が出るくらいなんですからね。見物をみると、想像以上のものでしたよ。入札して開けてみたところが、みんな欲しかったとみえて七千円以下はありませんでしたよ。七千円から八千円位の間でしてね、結局、八千二百円の人に落ちました。あれを最後に廻わしたところなど、向うの人もなかなか熟《な》れたもんですよ。あのカタログは唐雅堂で刷ったんだそうですが、調子が特によかったらしく、唐雅堂のおやじも鼻[#「鼻」に傍点]にしていましたが、どうも、あのカタログにプレミアムがつきそうなんでしてね、今朝《けさ》も、はしり[#「はしり」に傍点]の書画屋が二人も朝食前に来たんで、何かと思ったら、ぜひ、余分があったら実費で分けてもらいたいってね。大したもんですよ」
 蓼川家の売り立ての広告は、わたくしも先頃の新聞紙上で知っていた。この華族の売り立てカタログは数年前わたくしも見たことがあるけれど、仲々の豪華版だったと憶えている。このカタログでさえもが、好事家の手から手へ高値にさばかれるというようなことをきいて、わたくしは稀らしく思ったのであった。
 葛岡氏は続けた。売り立て品の数々を挙げ、師匠の「山茶図」が八千二百円では廉《やす》すぎる、と頻りに言った。
 師匠は黙ってきいて居られた。稍うつむきのその面には哀しげな苦笑がみえていた。
 葛岡氏は茶を啜り、なおも、話しつづけた。

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追記 「曼荼羅繍帳」については主として明石染人氏著「染織文様史の研究」を参考とした。
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[#地から1字上げ](昭和十四年七月)



底本:「神楽坂・茶粥の記 矢田津世子作品集」講談社文芸文庫、講談社
   2002(平成14)年4月10日第1刷発行
底本の親本:「矢田津世子全集」小沢書店
   1989(平成元)年5月
初出:「改造」
   1939(昭和14)年7月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りに
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