「突然でなんですけれど、お寿女さん、もし手すきでしたら暫らくの間貸して頂けないでしょうか。女中が郷里へ帰ってしまったものですからね、困っていますの」
 龍子はこんなふうに切り出した。そして、真っ赤に面を火照らせて、お茶の支度にうろうろしている寿女のほうへ、笑窪の顔をみせて言った。
「ねえ、お寿女さん、あたくしたち姉妹《きょうだい》なんですもの、これからは、せいせい、あたくし、お役に立ちますわ」
 嫂は、兄と目顔で相談しあっていたが、一応、親戚共に計ってからということに話をはこんだ。
 龍子は、お稽古のひとたちを待たせてあるからと早々に帰って行った。
 嫂は稀らしく燥ゃいで、寿女の肩をはたいて、
「寿女さんは果報者ねえ。あんなえらい方に目をかけて頂けるなんて」
 そして、真っ赤になってうろうろしている寿女の顔を、とんきょな眼つきで覗き込んだりした。
 翌日、寿女は嫂に附き添われて、青山の奥住の家へ行くことになった。加福の師匠から貰った檜の小枠だけは、自分で抱えて行った。

 わたくしの手元にある最近の婦人録に、声楽家奥住龍子女史の略伝がこんなふうにのっている。
 ソプラノ、明治音楽学園講師、昭英音楽学校講師、若艸会主宰。日本音楽学院本科声楽部卒業。一九三二年独逸留学、三四年帰朝、目下ステージを去って教授に専心。「南独紀行」「私の観た独逸楽壇」の著あり。
 わたくしは未だ奥住女史のステージの声に接したことがない。知人たちの噂によると、その歌いぶりは、稍《やや》堅実を欠いて奔放に流れがちだという。難曲といわれているものをも易々と歌いこなす度胸には愕かされるが、奥住龍子の一種の人気は、このステージ度胸で煙にまくところらしいともいう。
 わたくしはレコードを通してその歌を聴いた記憶があるけれど、もう、ずいぶんと前のことで、その歌いぶりも歌曲がなんだったやらも憶えていない。そういえば、奥住女史が何処かのレコード会社の専属だということもきいているから、吹き込んだものも多分にあるに違いない。
 せんだって、週刊雑誌のゴシップ欄に、写真入りで、奥住女史のことが出ていたけれど、若い燕と相携えて、再度の渡独、というような見出しがついていた。
 わたくしの知人の娘で、早くから奥住女史に師事しているひとがあって、よく噂をきかされるが、女史の門に入るのは非常に難しいと評判になっているようである。それは入門する際の素質ということよりも、家柄格式ということが第一条件におかれているからで、女史の説によると、折角の素質の芽が途中で萎えてしまうのは、それを育てる土が貧しいという場合が多い。音楽は他の芸術と違って、この土が豊かでありたいということを一つの条件としたいし、それゆえにまた、この芽が健やかに肥えふとっていくとも言われる。
 家柄格式というのも、つまりは産をさしての言葉であるし、弟子たちは、それを尤もな事として聞いた。そして、女史の弟子達は、どれも資産家の子女としてきこえていた。
 弟子を二十人あまりかかえているうえに、学校の講師をも兼ね、尚そのうえに若艸会では春秋の二季に音楽会を催すことが例となっているから、奥住女史の生活はずいぶんと多忙であった。
 この物語のずっと後に、わたくしは知人の娘にせがまれて、若艸会春季音楽会の切符を買わされた。音楽会のたびに、弟子達は、切符を一人宛二三十枚分も受もたされるということであった。わたくしは遅れて会場に入った。最後のコーラスがもう半ばをすぎて、派手やかに着飾った令嬢たちが舞台におし並び、楽器店や弟子たちの父兄達から奥住女史に贈られた花籠や花束がぎっしりと置き並べられて、折角のコーラスも、この色彩雑多な絢爛さに眩んでいるようであった。
 会が果てて、ざわつき帰る人びとに押されて、わたくしも廊下まで出ると、楽屋入口のところで知人の娘に声をかけられた。傍に立って誰れかれへ挨拶をしている笑窪のよった愛想のいい洋装の婦人は、写真で見かけたことのある奥住女史に相違なかった。知人の娘は、わたくしの手を引っ張って、奥住女史に紹介した。
「御一緒にお茶でも如何でしょうか」
 と、女史は、いかにも魅力に富んだにこやかな面をわたくしのほうへさしのべるようにして誘いかけた。
「あたくしたち、いま、銀座へくり出そうというところですのよ」
 知人の娘はわたくしの手にしがみついて離さない。促がされるまま女史たちと行を共にした。弟子たちは、知人の娘をいれて四人であった。
「このひとたち、みんな、あたくしの可愛いヒヨッコですのよ」
 車の中でも女史は弟子たちと巫山戯あった。両手を拡げて翼の中に抱え入れる仕草をすると、令嬢たちはキャッキャッと笑いこけた。
 弟子たちの間でも、また、学校の生徒たちの間でも、奥住女史は慕われ騒がれているということを、わたく
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