お世話して下さるだろうと思うがねえ。なんだったら、母さんがお願いしてみて……」
「そんなこと、母さん」
出しぬけの大声に、母親はびっくらした。
「それかって、お前……三年もの間かよいつめた甲斐がないじゃないかねえ。それに、加福さんだって、あんなに力を入れて下すったんだし、折角の手なんだからねえ」
「でも、そんなこと……」
寿女は本当に困りきった顔で、寸時母親を見戌っていたが、直ぐまた針にかかって、夢中になって縫い続けた。
仕立物を届けに湯島まで行った間に、母親の容態が急変して、医者が駈けつけた時には、もう、こと切れていた。
前夜、久しぶりで晴ればれした顔で牀の上に起きなおって、
「もう、大ぶんに快いから、きょうは一枚縫い上げるよ」
と、きかぬ気をみせて、絽縮緬の座敷着を手にとっていたが、片袖を縫いかけて、針をおいた。
「どうも、顔が重たくってねえ」
そして、しきりに両手で撫でたりしていたが、
「あとは明日《あす》のことにしようかねえ。意気地のないがお[#「がお」に傍点]ったらありゃしない」
と、弱く笑いながら寿女の手をかりて横になった。浮腫んで大きくなった顔のことを、母親は、こんなふうに呼び慣わしては、独りで可笑しがっていた。
親戚の者たちが寄り集まって、思案の種にしているのは、寿女の身の振りかたに就いてであった。尾久の嫂は、いつもの優しい丁寧な口調で、子供や職人達に手がかかるので、せっかく寿女を引きとっても、よく面倒みられないから残念だと言った。併し、結局、親戚共に説きつけられて、尾久の家では寿女を引き取ることに話が決まった。
尾久の家は、すぐ裏が塗料工場になっていて、目かくし塀に沿うた路地から職人たちは出入りするようになっていた。
路地の向うは溝《どぶ》になっていて、板が渡してあったし、その向うは十坪ばかりの空地で、亜鉛板《トタン》の錆びたのが積み重ねてあったり、瀬戸物のかけらだの、炭俵のぼろだのが捨ててあった。極く天気のよい日が続いても、この空地は乾いたことがなく、黒い土がグショグショしてみえた。時折り、この空地にゴム長をはいた人がきて、伸子《しんし》張りをはじめる。寿女は、二つになる末の子の守りをしながら、縁側からそれを眺めている。短い目かくし塀の下からは、ちょうど、ゴム長の人の伸子をはめこんで行く器用な手つきが見える。それは、面白いくら
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