、こんなことを言われるたびに、いつも戸惑いしてしまう。そして、だんだん笑わないで、考え込むようになった。
 或る日、地震があって、電球が僅か揺れたぐらいでやんでしまったが、咄嗟に、寿女も銀三も座を立ちかけた。胡粉で下絵から布地に絵を写していた連之助だけは、素知らぬ顔で続けている。微かな揺れかえしがきた時、中腰になっていた寿女は大袈裟に蹣跚《よろ》けて隣りの枠台に手をつき、胡粉皿がひっくりかえった。写しかけの綴れの布に白い絵具がべっとりと流れ、連之助は、呆然と顔を上げて、寿女を見た。
 また、或る日、銀三といつもの冗談口をききあっていた寿女が、大きな声を上げて笑い出すと、連之助が顔を上げて、
「少し静かにして下さい」
 と怒鳴った。
「こちらはこちら、そちらはそちらよ。おうるさかったら、どうぞ塀でもまわして下さいな、お隣りさん」
 寿女は取り澄まして、持ち針をちょいちょいと髪へなすりつけながら酬いた。
「何を言う」
 と、連之助はむっとして針を続けたが、不意に、「あっ!」と低く言って、手をひいた。左の人差指の先に血が玉になっている。刺しを酷くしたらしい。咄嗟に、寿女はその手をひったくって、指先の血を吸った。涙ぐんでいた。
 また、或る日、師匠の供をして連之助が外から戻って来ると、玄関まで出迎えた寿女がなかなか引きかえして来ない。銀三が行ってみると、寿女は三和土にしゃがんで履物を片付けている。びくっとして面を上げたが、袂で連之助の下駄の埃りをはらっていたところであった。
 寿女が加福の師匠の許へ通い出してから、三年あまり過ぎていた。今では師匠も眼をはなして、その技に委せている。寿女は念を凝らしてかかり詰めた。針にのった静かな心が、枠に対《むか》うと自然に滑り出す。出しぬけに、烈しいものがこの針を衝き進め、寿女はまごつく時がある。烈しいものを綯い混ぜに針がすすんで、こんなとき、よく、師匠に窘められた。
 或る晩、男弟子たちが他出した折りに、師匠が寿女を呼んで言った。
「銀三があなたを家内にしたいと言うのだが、どうでしょう」
 師匠も時にはさりげのない顔で揶揄いをいうことがあるので、また、それかと寿女は笑いながら取り合おうともしなかったが、黙している師匠の、いつまでも恬《しず》かな容子を視ているうちに、不意にそわそわし出した。
「あなたの気持ちを訊いてみてから決めるのが本当
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